日本歴史地名大系 「答島村」の解説 答島村こたじまむら 徳島県:阿南市答島村[現在地名]阿南市津乃峰町(つのみねちよう)・大潟町(おおがたちよう)・見能林町(みのばやしちよう)見能方(みのかた)村の南に位置し、南は橘(たちばな)浦。南東は橘湾に面し、沖合には橘浦に属する長(なが)島などがある。また北境には津峰(つのみね)山があり、山上に津峯神社がある。村内に里として遅越(おそごえ)・疾越(はやごえ)・夷山(えびすやま)(戎山)・長浜(ながはま)・西浜・小池・吉谷・舳崎(へさき)・新長浜・東浜・大潟・トバリ・南林(みなみばやし)・林崎(はやさき)・青木(あおき)、谷として鴻江・浚・草井谷・炭屋・木原・宮谷・柚奥・楠・大谷・江谷がある(阿波志)。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「こた嶋」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「こた嶋村」とみえ、那東(なとう)郡に属する。正保国絵図では答嶋村と記され、高二五九石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方二三六石余・畠方二三石余。芝山があり、旱損と注記される。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男一千二〇四・女一千三一〇・僧三・尼三。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高三三七石余。「阿波志」では土田は水陸田一五〇町三反余、高七二七石余、うち七八石余が采地。家数五五〇・人数二千五〇〇。文化元年の名負林検地帳(橘公民館文書)によると、町数九町五反余、床銀一貫四匁余・定請銀三三四匁余。天保年間(一八三〇―四四)の那賀海部両郡組村(徴古雑抄)によると、当村に組頭庄屋豊田佐五右衛門がおり、当村のほか椿泊(つばきどまり)・見能方・中林(なかばやし)・橘浦・内原(うちわら)の五ヵ村を管轄していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by