米子藍製座跡(読み)よなごあいせいざあと

日本歴史地名大系 「米子藍製座跡」の解説

米子藍製座跡
よなごあいせいざあと

[現在地名]米子市尾高町

尾高おだか町の北側裏にあり、広い敷地を占めていた。文化一〇年(一八一三)頃藩収入増加の一策として設置された藍玉製造所。初めは藍製場と称され、のち藍製座ともよばれた。文化八年従来問屋を通して行われてきた藍玉売買は、領内産・他国産を問わず銀札場を通して行うこととされ、同一〇年には領内手作および移入された他国産の葉藍は米子藍製場で買集めて藍玉に製造し、製品は銀札場から紺屋に売りさばかれることと定められた(在方御定)。米子に藍製場が設けられたのは会見あいみ郡、とくに浜の目はまのめ地方で葉藍生産が盛んであったこと、同八年頃から米子で行われた藍玉の試製造が好評であったことなどによるという。文化末年には鳥取にも藍製場が設けられたので、米子にはおもに会見日野汗入あせり三郡の葉藍が集められることになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む