米谷村
まいたにむら
[現在地名]宝塚市米谷一―二丁目・三笠町・売布一―四丁目・売布ガ丘・売布東の町・売布山手町・泉町・寿町・中山寺三丁目・清荒神一―五丁目・今里町・旭町一―二丁目・星の荘・米谷
川辺郡に所属。有馬街道に沿って小浜町の北に位置し、西は荒神川を挟んで武庫郡川面村。中世米谷庄の遺称地で、別に米谷村の村名もみられる。慶長国絵図に村名がみえ高六二四石余。天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では高六四〇石余。慶長一九年(一六一四)高四二三石余が大和小泉藩領となり(「片桐貞隆宛知行目録」杉原家文書)、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳によると残る高二〇〇石は幕府領(代官建部与十郎預地)。寛文二年(一六六二)には二〇〇石分が上総飯野藩領になり(「免状」和田家文書)、幕末に至る(宝塚市史)。
宝暦七年(一七五七)の飯野藩領明細帳(和田家文書)によると、百姓四一・無足五、借屋一五、酒造株一〇〇石。明和四年(一七六七)の小泉藩領明細帳(阪上家文書)によれば本村の家数は百姓五三・無足六・借居一八、人数三六八。百姓のうち米商売四、牛商人宿三、薪木商売二、小間物商二、紺屋・米味噌油小売・籾うす細工・水車稼・木綿煙草荷売・綿打味噌醤油荷売・医師手習子取・鉄砲狩人・江戸稼が各一。
米谷村
まいやむら
[現在地名]東和町米谷
北上川左岸にあり、南は楼台村、東は水界峠を経て本吉郡入谷村(現志津川町)へ、北方への道は二方に分れ、北上川沿いに西郡村、二股川沿いに狼河原村へ続く。北上川対岸は水越村(現中田町)に対する。北上山地西斜面の山村で、入谷村境から大関川と恩田川が西流して北上川に合流、北上川左岸に耕地があるが、東部はほとんど山地である。村名はかつて前谷村と称したが、岩間より湧出した泉水が米に変じたので、米谷山福源寺を建立、村名も米谷と改めたという(登米郡史)。正保郷帳に米谷宿と記され、田八一貫四四七文・畑四〇貫六四四文とあり、ほかに同所新田三貫一七七文があり、水損と注記される。
米谷村
まいたにむら
[現在地名]奈良市米谷町
興隆寺村東南方の渓谷集落。「まいたに」は前谷の義か。「大乗院雑事記」文明一三年(一四八一)八月一日条に「昨日興隆寺自焼了、舞谷同自焼了」とあり、米谷(太郎入道宗慶)氏の山城があったと伝える(国民郷士記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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