糸井村
いといむら
[現在地名]三次市糸井町
廻神村の東南、美波羅川西岸の沖積平野に位置し、「芸藩通志」は「広三十四町、袤十八町余、西北は山連り、東西は地ひらけて平田を敷く、西川は東北に流る、飛郷一名、大田幸村の内にあり」と記す。三谿郡に属した。
江戸時代を通じて広島藩領で、元和五年(一六一九)の備後国知行帳に高六三六・八八八石を記す。「芸藩通志」では戸数一一五・人口五一三、牛七九・馬三三、畝高六四町七反余。
糸井村
いといむら
[現在地名]昭和村糸井
橡久保村の北方、赤城山の北西山麓と片品川の間にある河岸段丘上に立地。天正一〇年(一五八二)一二月二四日の北条氏邦朱印状(林文書)によると、沼田攻めの恩賞として糸井・森下、沼須・久屋(現沼田市)のうちから、馬上の者には一〇貫文、徒衆には三貫文が与えられている。寛文郷帳によると田方四六六石余・畑方四四五石余、前橋藩領。江戸後期の御改革組合村高帳では六八五石余は幕府領、三四二石余は旗本長山領、家数三一七。
糸井村
いといむら
[現在地名]太子町糸井
竹広村の東に位置する。村名は村の東にある湧水糸ノ井によると思われる。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)では木下家定は「いと井村」の高一八〇石などを与えられている。慶長九年(一六〇四)の糸井村検地帳(富岡家文書)が残る。慶長国絵図にも村名がみえる。慶長一八年の揖東郡村々高覚(三木家文書)には福井庄と肩書されて糸井村とみえ、同一三年の高三四三石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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