紀淑人(読み)きのよしと

精選版 日本国語大辞典 「紀淑人」の意味・読み・例文・類語

き‐の‐よしと【紀淑人】

平安中期の公家。長谷雄の子、淑望の弟。伊予守。南海の海賊追捕(ついぶ)に功をあげ、藤原純友反乱平定。のち河内守。天慶六年(九四三)没。

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朝日日本歴史人物事典 「紀淑人」の解説

紀淑人

生年生没年不詳
平安中期の官人。中納言長谷雄の次男承平6(936)年,日振島(宇和島市)を拠点に藤原純友が蜂起した際,追捕南海道使(兼伊予守,左衛門権佐)すなわち四国一帯の軍事指揮官に任じられ,追捕鎮圧に当たった人物として知られる。前年河内守に任じられた矢先であったが,力量を見込まれたのであろう。『扶桑略記』によれば,淑人の寛大な処置に首領三十余人以下賊徒二千五百余人が帰伏投降,かれらに衣服,田畠を与え,種子をも支給して農業に従事させたという。しかし天慶2(939)年に至り純友は淑人の制止をふりきり反乱を起こした。のち丹波守となり再び河内守。『古今集』に歌を収める。

(瀧浪貞子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「紀淑人」の解説

紀淑人 きの-よしひと

?-? 平安時代中期の官吏
紀長谷雄(はせお)の次男。承平(じょうへい)6年(936)伊予守(いよのかみ)兼追捕(ついぶ)南海道使に任じられ,伊予(愛媛県)日振(ひぶり)島を拠点に略奪をおこなう藤原純友(すみとも)らの鎮圧にあたる。投降した海賊2500人余に衣食,田畑をあたえて農業に従事させた。天慶(てんぎょう)6年丹波守,のち河内守(かわちのかみ)。「古今和歌集」に1首はいっている。
格言など】秋ののにつまなきしかのとしをへてなぞわがこひのかひよとぞなく(「古今和歌集」)

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世界大百科事典(旧版)内の紀淑人の言及

【藤原純友の乱】より

…一時その活動は鎮まるが,承平年間(931‐938)になると急に活動が活発化し,賊船1000余艘が海上に浮かんで官物奪取・殺害を続けたため,海上交通も途絶状態となった。朝廷はその対策として936年紀淑人を伊予守兼追捕南海道使に任じ,藤原純友らに海賊制圧のことを行わせた。淑人の柔軟で寛仁な海賊対策は効を奏し,1000人を超える海賊が帰順,その動きはいったん収まった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」