中国の南方に存在する海、さらにその沿岸の諸国、またその海を航行して来貢する諸国。南シナ海の中国での名称としても使われる。中国人の地理的知識と、交易地域の拡大とともに、南海の意味する地域は広くなった。秦(しん)代、いまの広東(カントン)、広西地方に置かれた郡を南海郡と名づけたのが、この用語の始まりで、しだいに、インドシナ半島、マレー半島から、さらにジャワ、ボルネオ、スマトラの諸島に広がり、フィリピン群島にも及んだ。11世紀以後は、インド洋を越えて、ペルシア湾、紅海からアフリカの一部などの沿岸諸国をも意味するに至った。南宋(なんそう)の『嶺外代答(れいがいだいとう)』『諸蕃志(しょばんし)』、元の『真臘風土記(しんろうふどき)』、明(みん)の『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』『東西洋考』などは、当時の中国人の海外への好奇心が生んだ著作であるが、これらによって南海が、時代を下るにつれて拡大する事情がわかり、南海の中国史上の意義をうかがうことができる。
[星 斌夫]
『石田幹之助著『南海に関する支那史料』(1945・生活社)』
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…イギリスは以後30年間,毎年4800人の奴隷を供給し,毎年1回商品貿易に従う〈年次船〉500トンを派遣する権利を得たのである。イギリス政府はこれを南海会社にゆだねたが,会社は予想したほどの利益をあげえず,〈年次船〉の行う密貿易が紛争の火種となってスペインとの間に戦争さえ起こったので,1750年には放棄し,アシエントもその歴史的役割を終えた。【川北 稔】。…
… 1718‐20年,パリもロンドンもアムステルダムも空前の株式ブームにわいた。このブームとその崩壊はともにパリから始まったが,フランスではジョン・ローのミシシッピ泡沫事件(1720),イギリスでは南海泡沫事件(1720)という二つのドラマティックな事件をひきおこした。ミシシッピ川流域との貿易を独占するジョン・ロー設立の特権的貿易会社の株がパリで投機の渦中にあったとき,イギリスでは中南米沿岸と西アフリカで貿易および開発の特権を与えられた南海会社(1711設立)の株が急上昇を続け,20年6月のピークには額面100ポンドの株が1050ポンドにも跳ね上がった。…
… 特許会社としてのカンパニーは,絶対王政などによってそれぞれの独占権を保障された〈初期独占〉体であったから,16世紀末以降,議会の〈反独占闘争〉の矢面に立たされ,市民革命の前後に事実上力を失う。東インド会社のように,改組されてむしろ18世紀に繁栄したものもあれば,新世界への奴隷供給を任務とした王立アフリカ会社(1672設立)やアシエント契約によるスペイン領新世界との貿易を策した南海会社(1711設立)のように,王政復古以後に成立したものもあるが,あまり成功しなかった。そのうえ,1720年,南海会社に関連して株式パニック〈南海泡沫事件〉が起こると,〈泡沫会社禁止法〉が出され,株式会社の新設に厳しい制限が設けられる。…
…1720年に起こった南海会社South Sea Companyの株価大暴落を契機とするイギリスの大恐慌。南海会社は1711年に,スペイン領中南米との奴隷その他の商品の取引を目的とし,またスペイン継承戦争でふくれ上がった国債の低利債への転換をも目的として設立された。…
…また古代インド人は,この地を〈黄金の地Suvarṇabhūmi〉〈黄金州Suvarṇadvīpa〉と呼んだ。一方,中国人はこれを〈南海〉と総称していた。南方の海を経由して中国に朝貢した国々,あるいは中国人が南方の海を経て到達することのできた国々の意である。…
…中国では南海と呼ばれ,中国三大辺海の一つ。北は台湾および中国南部,東はフィリピン諸島,西はベトナムで囲まれ,ほぼ北緯10度線を境として南のボルネオ海とつらなる。…
※「南海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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