藤原純友(読み)フジワラノスミトモ

精選版 日本国語大辞典 「藤原純友」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐すみとも【藤原純友】

  1. 平安中期の貴族。良範の子。伊予掾となって下向、瀬戸内海の海賊と結んでその棟梁となり、伊予の日振島を根城に公私官物の略奪など東は播磨、西は大宰府まで、ほとんど内海全域に勢力を拡げたが、天慶三年(九四〇)、小野好古源経基に敗れ、捕えられて殺された。天慶四年(九四一)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原純友」の意味・わかりやすい解説

藤原純友
ふじわらのすみとも
(?―941)

平安中期の瀬戸内海海賊の組織者。大宰少弐(だざいのしょうに)藤原良範(よしのり)の子。また伊予前司(いよのぜんじ)高橋友久の子とも伝える。伊予掾(じょう)。936年(承平6)、伊予日振島(ひぶりじま)(愛媛県宇和島市)に拠(よ)る海賊、1000余艘(そう)、2500余人の首領であったが、国守紀淑人(きのよしひと)のもとに投降した。『本朝世紀』によると、純友はこの年に追捕(ついぶ)海賊の宣旨(せんじ)を被っており、海賊の動きはしばらく鎮静化するので、その組織力の大きかったことがわかる。しかし939年(天慶2)12月、備前介(びぜんのすけ)藤原子高(さねたか)らの一行を摂津で襲ってふたたび反乱。東国平将門(まさかど)の反乱と同時であったため、東西の兵乱として貴族たちを震撼(しんかん)させた。

 朝廷は純友に従(じゅ)五位下の位階を授けて懐柔西海の反乱は一時鎮まるが、940年5月に征東軍が帰洛(きらく)すると純友士卒の追捕を令し、西海の追討が本格化する。純友は讃岐(さぬき)の国府を攻めて国軍を走らせ、備前、備後(びんご)の兵船を焼いたが、朝廷は長官小野好古(よしふる)・次官源経基(つねもと)らの追捕使を任じてこれにあたらせた。海賊軍は紀伊、安芸(あき)、周防(すおう)などを襲うがしだいに追い詰められ、941年5月に大宰府を襲撃するが追討軍に敗れて四散する。伊予に逃れた純友は6月29日、子息とともに警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれた。遠保に捕らえられて獄中で死んだとも伝える。純友与党の追捕もこの年内に完了するが、その経過をみると、純友は九州、四国、中国地方の瀬戸内一帯の海賊を組織していたことがわかる。

[福田豊彦]

『福田豊彦著『平将門の乱』(岩波新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原純友」の意味・わかりやすい解説

藤原純友 (ふじわらのすみとも)
生没年:?-941(天慶4)

平安中期の地方豪族。大宰少弐良範の子,あるいは伊予前司高橋友久の子で良範の養子とも。伊予掾として936年(承平6)海賊追捕の宣旨をうけ,伊予守兼追捕南海道使紀淑人に協力してその追捕にあたった。しかし939年(天慶2)12月東国で平将門の乱が起こると,紀淑人の制止を振り切って反乱に立ちあがり,瀬戸内海に一大勢力となる。将門と共謀し東西呼応して蜂起したとの説には根拠がないが,将門の乱による混乱を好機と判断したことは考えられる。純友は東国に自立しようとした将門とちがい,京都への侵攻を意図した可能性があるが,940年2月将門の敗死によって機を失う。同月従五位下を授けられたが,8月以降,伊予・讃岐・安芸・周防・土佐などを攻撃。追捕使小野好古,諸国警固使らの活躍によりしだいに追いつめられ,翌941年5月大宰府を攻撃して敗れ,6月本拠である伊予の日振(ひぶり)島に逃げ帰ったところを橘遠保によって討たれた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原純友」の意味・わかりやすい解説

藤原純友
ふじわらのすみとも

[生]?
[没]天慶4(941).6.20. 伊予
平安時代中期の海賊。伊予掾。筑前守大宰少弐良範の子。瀬戸内海の海賊の首領で,承平6 (936) 年,伊予国日振 (ひぶり) 島を根拠として瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配して各地を掠奪した。このときは伊予守紀淑人に攻められ一時平定されたが,再び勢力を回復。天慶3 (940) 年,東国で平将門の反乱が中央に及ぼうとしていたのと時を同じくして,淡路国を襲って兵器を奪い,さらに讃岐,周防,筑前を荒し回り,大宰府を焼打ちにしたが,追捕使 (ついぶし) 小野好古の軍勢に敗れた。伊予国で捕えられて殺された。 (→承平・天慶の乱 )  

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百科事典マイペディア 「藤原純友」の意味・わかりやすい解説

藤原純友【ふじわらのすみとも】

平安中期,伊予(いよ)日振(ひぶり)島を根拠に瀬戸内海で反乱を起こした伊予国の官人。良範(よしのり)の子。伊予掾(いよのじょう)となったが,939年の平将門(まさかど)の乱とほぼ同時に任国で反乱を起こし誅された。→承平・天慶の乱
→関連項目源経基

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原純友」の解説

藤原純友 ふじわらの-すみとも

?-941 平安時代中期の官吏。
藤原長良(ながら)の曾孫で,大宰少弐(だざいのしょうに)藤原良範の次男。伊予掾(いよのじょう)に任じられた。任地で海賊を組織し,天慶(てんぎょう)2年平将門の反乱とほぼ同時に,瀬戸内海に反乱をおこす(天慶の乱)。小野好古(よしふる)ら追捕使に追いつめられ,天慶4年6月20日伊予で討たれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原純友」の解説

藤原純友
ふじわらのすみとも

?〜941
平安前期の地方官で,瀬戸内海で反乱をおこした
934年伊予掾 (いよのじよう) の任期が終わったのちも帰京せず,海賊の首領となり官物を横領。939年には讃岐・伊予の国府を襲い,大宰府を攻めたので朝廷の命をうけた源経基・小野好古らにより討たれた。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原純友の言及

【伊予国】より

…律令制の動揺とともに伊予国は海賊の活躍する舞台となった。とくに前伊予掾藤原純友は,939年(天慶2)反乱をおこし,伊予ばかりでなく,讃岐,周防,土佐を侵略し,さらに大宰府にまで進出した。律令政府は,小野好古,橘遠保らの軍勢を派遣して,941年にこれを鎮圧した。…

【平将門の乱】より

…10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉,あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は,935年(承平5)以来,常陸西部に館をもつ一族の平国香平貞盛,良兼,良正らと合戦を繰り返していたが,939年(天慶2)11月に常陸国衙を略奪して焼き払い,国守藤原維幾らを捕らえた。…

【日振島】より

…無人島の沖ノ島,横島,御五神(おいつかみ)島などを属島とし,それらを合わせると5.14km2。936年(承平6)藤原純友の一党が船1000余艘を擁し,この島に屯集したと《日本紀略》にみえる。近世以来イワシ網漁が盛んで,網主でもあった庄屋の清家氏は島の開発を進め海運業も営み,〈島大名〉と称された。…

※「藤原純友」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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