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紀長谷雄 きのはせお

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

紀長谷雄
きのはせお

[生]承和12(845).京都
[没]延喜12(912).2.10. 京都
平安時代前期の漢学者。貞範の子。字,寛。唐名は発昭。その名は,父が長谷寺に祈願して生れたのにちなむという。貞観 18 (876) 年文章生。文章博士,大学頭,左大弁などを経て,延喜2 (902) 年参議,同 10年権中納言,翌年中納言。

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デジタル大辞泉の解説

き‐の‐はせお〔‐はせを〕【紀長谷雄】

[845~912]平安前期の漢学者。通称、紀納言。文章博士・大学頭。菅原道真(すがわらのみちざね)に学び、藤原時平らと「延喜格」の編纂(へんさん)にあたった。漢詩文集「紀家集」がある。

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百科事典マイペディアの解説

紀長谷雄【きのはせお】

平安前期の漢詩人,文章博士。紀納言とも。菅原道真の知遇を得て文名が高かった。延喜格の編纂(へんさん)に加わり,詔勅,外交文書等の起草に当たった。文集《紀家集》は断簡を残すだけだが,《本朝文粋》その他に詩文がみえる。
→関連項目紀貫之巨勢金岡

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

紀長谷雄 きの-はせお

845-912 平安時代前期-中期の漢学者,公卿(くぎょう)。
承和(じょうわ)12年2月生まれ。紀貞範の子。菅原道真に師事。延喜(えんぎ)10年従三位,翌年中納言。延喜格(きゃく)の編修にくわわり,また当時の詔勅,公文書のおおくを起草した。詩文は「日本詩紀」「本朝文粋」などにみられる。延喜12年2月10日死去。68歳。字(あざな)は寛。通称は紀納言。唐名は発昭。詩集に「紀家(きか)集」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

紀長谷雄

没年:延喜12.2.10(912.3.1)
生年:承和12(845)
平安前期の学者,詩人。従三位中納言弾正忠貞範の子。祖父典薬頭国守は良吏で知られた今守の弟。父が大和国長谷寺(桜井市)に祈願して生まれたので長谷雄と名づけたといい,字は紀寛。俗称紀納言,紀家とも。唐名は紀発昭(超)。図書頭,文章博士などを経て寛平6(894)年遣唐副使(大使は菅原道真)に任じられたが,道真の建言で遣唐使が廃止され入唐することなく終わった。宇多天皇の信任を得て「大器」と評され,天皇は譲位の際,新帝醍醐に昇進を促している(『寛平御遺誡』)。大蔵善行,次いで菅原道真に師事して若いころから詩才を認められ,道真没後は三善清行と並ぶ評価を得たが,学閥の対立からか,清行から「無才の博士」と罵られたという話は有名。『長谷雄草紙』など長谷雄にまつわる怪異譚が多く,彼自身も古老の話をまとめて『紀家怪異実録』(散佚)を著している。詩集『紀氏文集』は没後中国に流布したといい,『本朝文粋』『日本詩紀』などに詩文が残る。道真が晩年,配所での作品をまとめ都の長谷雄に託したのが『菅家後集』。

(瀧浪貞子)

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世界大百科事典 第2版の解説

きのはせお【紀長谷雄】

845‐912(仁寿1‐延喜12)
平安前期の詩人,文章博士。紀納言または紀家ともよぶ。唐名は発昭。淑望(よしもち)は長子。はじめ大蔵善行の門に入り,のち菅原道真の門に学ぶ。対策に及第し文章博士,大学頭となり,《漢書》《文選》等を進講,右大弁に任じ《群書治要》を進講。遣唐副使に任ぜられたが,遣唐使廃止のため派遣停止。道真左遷後参議,中納言に進み,《延喜格》の編集にもかかわり,912年68歳で没した。延喜以後島田忠臣小野美材(よしき),道真が相ついで死去したのちの詩壇の権威として認められつつも,その人柄は律儀,慎重で才気をつつんで無事の生涯を送った。

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大辞林 第三版の解説

きのはせお【紀長谷雄】

845~912) 平安前期の学者・漢詩人。通称、紀納言。文章博士・大学頭・中納言。菅原道真に学び、その才を愛された。「延喜格」の撰に参加。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紀長谷雄
きのはせお
(845―912)

平安前期の漢学者、漢詩人。15歳で大学に入学し都良香(みやこのよしか)に師事した。876年(貞観18)に文章生(もんじょうしょう)に補され、翌年、長く不遇であった良香の門を離れ菅原道真(すがわらのみちざね)の私塾に入門。883年(元慶7)文章得業生(とくごうしょう)試(対策)及第。文章博士(はかせ)、式部少輔(しきぶのしょう)などの儒職を歴任し、894年(寛平6)には道真(大使)とともに遣唐副使に任じられた。のち参議を経て911年(延喜11)中納言従三位(ちゅうなごんじゅさんみ)となり、紀納言とよばれた。9世紀後半以来顕在化する学者文人間の対立抗争のなかで、孤立化する詩人派にくみし、その総帥であった道真に高く詩才を認められ、またそのもっともよき理解者でもあった。『白箸翁(はくちょおう)』『白石先生伝』のような神仙・隠逸的傾向の強い著作に特色をみせる一方、さまざまな様式の作詩を意欲的に試みるなど、その文学的活動は多彩であった。詩文集『紀家集』の古写断簡を遺存するほか100編近い詩文を伝える。のち、怪異説話の主人公とされ、絵巻『長谷雄卿草紙』のほか、『江談抄(ごうだんしょう)』『今昔(こんじゃく)物語集』などに多くの説話が伝えられる。[渡辺秀夫]
『川口久雄著『3訂 平安朝日本漢文学史の研究 上』(1975・明治書院)』

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世界大百科事典内の紀長谷雄の言及

【本朝文粋】より

…兼明や順に見られる藤原氏専制下における批判は,和歌や日本語散文の世界よりも漢文学の世界に現れるのは注目すべきところである。紀長谷雄(きのはせお)《貧女吟》は深窓に養われた美女もいまや老いて病む貧しい独居生活を描写し,大江朝綱(あさつな)《男女婚姻賦》はポルノグラフィックな戯文としてともに異色の作。巻二は詔,勅書,勅答,位記,勅符,官符,太政官符,意見封事など公文書の類,実用的文例を収める。…

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