日本歴史地名大系 「納花村」の解説 納花村のうけむら 大阪府:和泉市納花村[現在地名]和泉市納花町鍛冶屋(かじや)村の東から南にかけての南北に狭長な村。池田(いけだ)谷の一村。南部に俊乗坊重源が築いたと伝える谷山(たにやま)池がある。地名は昔当地に施福(せふく)寺の花畑があり、四季の花を同寺に納めていたことによるという(大阪府全志)。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図には「のけ村」とみえる。高は不明。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、高一五二石余、幕府領。元文年中改和泉国四郡郷村高帳では一六一石余。元禄元年(一六八八)下総関宿藩領となり幕末に至る。谷山池について、元禄九年の泉邦四県石高寺社旧跡并地侍伝は鍛冶屋村の項に、「此村之南に谷山池と云大池あり、是ハ往昔俊乗坊重源上人此山之内に池を可築とて諸国勧進致す、此勧進之米銭讃岐国飢饉に及、国中之飢る民に勧進の米銭を不残施行し給に依て、国中飢を助る、其後讃岐一国之百性(姓)大勢参り、為報恩此池を築く人夫之加勢致す、其時讃岐之者池守と成、其外数十人残り止り住居す、其所を讃岐田村と号し其池守の子孫于今あり、谷山池の池の中島に俊乗坊の御影堂あり、此池之水掛り十二ケ村毎年三月十八日法会相勤る之由」と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報