朝日日本歴史人物事典 「細川持賢」の解説
細川持賢
生年:応永10(1403)
室町時代の武将。細川満元の3男。持之の弟。官名右馬助,右馬頭,法名道賢。嘉吉1(1441)年6月,将軍足利義教が赤松満祐に暗殺されると,討伐軍に参加しその功で摂津欠郡(西成郡)守護に任ぜられた。以後子孫がこの地の守護となり,典厩家と称す。翌年持之が死ぬと,嗣子勝元幼年のためこれを後見し,数年間幕政の枢機にもあずかった。よく甥の勝元を補佐し,他の守護家のように内紛を起こさなかった。義教の菩提を弔うため摂津に崇禅寺を創建。応仁の乱では勝元率いる東軍の有力武将として活躍し,応仁1(1467)年11月大内政弘の兵を摂津に防御したが,翌年病没。東福寺の雲泉大極と親交があり,人となり恭謙剛毅,寛仁にして衆心を得ると評された。
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報