日本歴史地名大系 「結崎村」の解説
結崎村
ゆうざきむら
寺川右岸にあり、夕崎とも書く。結崎の地名は承久三年(一二二一)二月一八日の僧覚伊田地売券(東大寺文書)端書に「ユフサキ」とあり、弘安元年(一二七八)五月一〇日の新院寺講衆寺領田畠売券(東大寺文書)に「城下郡西郷十一条三里七坪 字結崎」と記す。永仁二年(一二九四)の大仏灯油料田記録によると、夕崎は
元和郷帳は「夕崎村」として村高は二二二五・八七五石で、うち一四九六・〇六五石が御番衆領、七二九・八一石が幕府領(代官大久保長安)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となる。その後、結崎村は五村に分れ、元禄郷帳には
享保九年(一七二四)の和州御領郷鑑は「井戸村」の項に「中村、市場村、辻村、井戸村四か村出屋敷与申付」と、四村の出屋敷をあげ、家数二〇、人口一一〇(男五三、女五七)で大工一、樫や一、牛二と記す。享和三年(一八〇三)の郷帳には結崎村の内として「上出屋敷、下出屋敷、別所村与申垣内在」とある。
明治九年(一八七六)六月四日、市場村(三三戸一八三人)、中村(六二戸三三六人)、辻村(四二戸二一九人)、井戸村(五三戸二七三人)、出屋敷方(四〇戸一八三人)は「元来耕地屋敷地等入混レ候処、今般地租御改正ニ付、各村協議之上耕地合併、旧来之村名相廃止、合村之上結崎村与改称仕度」との「合村御願」を当時の堺県に提出、同一〇年二月六日付で認められた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報