大和猿楽(読み)ヤマトサルガク

デジタル大辞泉 「大和猿楽」の意味・読み・例文・類語

やまと‐さるがく【大和猿楽】

中世、大和国本拠地をもって、春日神社の神事などに奉仕した猿楽の座の総称。大和四座が著名で、近世以降の猿楽の主流となった。→大和四座しざ

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精選版 日本国語大辞典 「大和猿楽」の意味・読み・例文・類語

やまと‐さるがく【大和猿楽】

  1. 〘 名詞 〙 中世、大和国(奈良県)の興福寺、春日神社の神事に従事した猿楽。外山(とび)(=宝生流)・結崎(ゆうざき)(=観世流)・円満井(えんまんい)(=金春流)・坂戸(さかと)(=金剛流)の四座があった。
    1. [初出の実例]「やまとさるがくは、河勝よりすぐにつたはる」(出典:申楽談儀(1430)猿楽の諸座)

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改訂新版 世界大百科事典 「大和猿楽」の意味・わかりやすい解説

大和猿楽 (やまとさるがく)

興福寺,法隆寺等の大和の寺社属で,その神事祭礼奉仕を根本的な義務とした猿楽。《風姿花伝(ふうしかでん)》神儀に,〈大和国春日御神事相随申楽四座〉として,外山(とび)(宝生座),結崎(ゆうざき)(観世座),坂戸(さかど)(金剛座),円満井(えんまんい)/(えまい)(金春(こんぱる)座)の四座がみえており,室町初期にはこの四座が大和における代表的な猿楽座となっていた。この四座がやがて近江,丹波等の近隣諸座に対して優位に立ち,能の隆盛に中心的な役割を果たすのだが,その大和猿楽の歴史は平安時代にまでさかのぼる。すなわち,興福寺の修二会(しゆにえ)に付随する催しで,大和猿楽が幕末まで参勤の義務を負っていた薪猿楽(たきぎさるがく)(薪能)は,平安中期の万寿年間(1024-28)以前の始行と推定されるから,大和猿楽の活動はそのころからのことになる。その後,1136年(保延2)に始まった春日若宮祭にも当初から猿楽の出勤が継続して認められる。この薪猿楽や若宮祭に出勤した猿楽は後の円満井座の祖と考えられるが,彼らは鎌倉時代に入ると京都や近江にまで進出して,〈奈良猿楽〉などと呼ばれている。これは大和猿楽の活動がようやく活発になってきたことを示すもので,鎌倉初期にはこの円満井座の祖と思われる猿楽のほかにも,法隆寺属の坂戸座,長谷寺属の長谷猿楽の存在が知られる。こうして,外山,結崎,坂戸,円満井の四座が,大和一国に強大な支配を誇った興福寺属となり,これが大和における代表的な猿楽座となるわけであるが,興福寺への四座参勤という形態がいつ始まったかは不明である。四座中,最も由緒の古いのが磯城(しき)郡田原本町西竹田付近を本拠とした円満井座で,同座は他の三座に対して本座という関係にあった(《円満井座壁書》)。本拠とした地名をもって〈竹田の座〉とも呼ばれた(《申楽談儀(さるがくだんぎ)》)。同座の伝承では円満井座は秦河勝に始まるとされ,金春禅竹以後の大夫は秦氏を名のっているが,世阿弥やその次男元能までが秦氏を称している点にも,本座としての円満井座の由緒がうかがえる。しかし,確実な系譜としてたどれるのは鎌倉後期ころの毘沙王権守(びしやおうごんのかみ)までで,それ以前は不明である。

 金春座という名称は禅竹の祖父の金春権守に由来するらしい。一方,外山座は桜井市外山に,結崎座は磯城郡川西町結崎に,坂戸座は生駒郡平群(へぐり)町にそれぞれ本拠を構えていたようだ。坂戸座はもとは法隆寺属で鎌倉初期から活動していた座であるが,いつからか興福寺参勤猿楽となっていた。ただ,興福寺属となった後でも法隆寺の祭礼には勤仕していたらしい。金剛座という呼称は観阿弥と同時代の金剛権守に由来するようである。また外山座と結崎座の歴史がある程度明確になってくるのは,〈山田みの大夫〉なる猿楽の孫の宝生大夫,生市(しよういち),観世の3兄弟のうち,長兄の宝生大夫が外山座の,末弟の観世(観阿弥)が結崎座のそれぞれ大夫となった南北朝ころからである。〈山田みの大夫〉は桜井市山田にあった猿楽(山田猿楽)で,多武峰参勤猿楽(多武峰猿楽)だったらしい。結崎座では,畿内にいながら多武峰への参勤を怠った座衆は,座から追放という厳重な罰則があったが,結崎座と多武峰との緊密なかかわりはこの山田猿楽以来のものと推定される。従来は観阿弥の出身は伊賀であり,伊賀で座をたてたと説かれることが多かったが,山田は大和の山田であり,したがって観阿弥の出身は大和であり,結崎座も観阿弥以前から存在していた座であったと考えられる。結崎座を観世座,外山座を宝生座と呼ぶのは〈山田みの大夫〉の孫の名に由来するらしい。なお,観阿弥の次兄の生市は出合座(であいざ)を継いだらしい。出合座は室町初期ころまでは活動していたようだが,その活動の状況はまったく不明である。

 大和猿楽はやがて京へ本格的に進出することになるが,その先頭をきったのが観阿弥と世阿弥親子の観世座であった。京における観阿弥,世阿弥の事績としては,1372-74年(文中1-3・応安5-7)ころの醍醐寺における7日間の勧進猿楽(勧進能),および同じ74年か75年(天授1・永和1)の今熊野神社の猿楽が最も古く,いずれも観阿弥とともに子の世阿弥の芸が世人の注目を浴びたらしい。とりわけ今熊野神社での猿楽は将軍足利義満の初めての能見物で,観世座が将軍愛顧の座として発展していく契機となった。観世座の進出以前に京で活動していたのは摂津の榎並猿楽であるが,1424年(応永31)醍醐寺清滝宮の楽頭職(がくとうしき)も榎並から世阿弥の手に移っている。観世以外の三座も京で演能活動をしているが,その頻度は観世座とは比較にならず,世阿弥の佐渡配流といった曲折はあったものの,代々の観世大夫は室町将軍の愛顧を受けた。室町期に観世の芸風を〈京がかり〉,金春のそれを〈大和がかり〉と呼んでいるのも,それぞれの活動の場を反映したものである。応仁の乱(1467-77)から戦国時代という混乱期には大和猿楽も窮乏するが,金春座を贔屓(ひいき)にしていた豊臣秀吉の保護があって危機を脱する。秀吉は宇治猿楽丹波猿楽の役者を大和猿楽四座にツレ囃子方として所属させたため,それらの諸座は解体の運命をたどり,結果的に大和猿楽のみが命脈を保つこととなったが,江戸幕府も秀吉の政策を継承し,四座の役者に知行・扶持・配当米を与えて保護した。この四座に江戸初期に一流樹立が認められた喜多流を加えた四座一流が幕府保護の猿楽で,それが今日の五流(観世流宝生流金春流金剛流,喜多流)のもととなった。

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百科事典マイペディア 「大和猿楽」の意味・わかりやすい解説

大和猿楽【やまとさるがく】

大和国の社寺の神事祭礼に勤仕した猿楽諸座の総称。興福寺修二会(しゅにえ)の薪(たきぎ)猿楽は平安中期までさかのぼり,のちに春日若宮祭にも出勤,円満井(えまい)座(竹田座)の祖となる。ほかにも法隆寺所属の坂戸(さかど)座,長谷寺所属の長谷猿楽,多武峰(とうのみね)所属とみられる山田猿楽の後身の外山(とび)座・結崎(ゆうざき)座・出合(であい)座などがあったが,その後,円満井(金春座)・坂戸(金剛座)・外山(宝生座)・結崎(観世座)の4座が,興福寺参勤猿楽となる。室町初期に結崎座の観阿弥世阿弥父子が京都に進出して将軍足利義満の寵遇を得,またこれら大和四座は豊臣秀吉江戸幕府の保護をうけ,今日ののシテ方五流(観世流喜多流金剛流金春流宝生流)を形成。→薪能

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大和猿楽」の意味・わかりやすい解説

大和猿楽
やまとさるがく

中世に大和国(奈良県)に本拠を置いた猿楽の座の総称。大和一円に大小の座が存在したが、それらのうち大和平野およびその近辺に座を構えた円満井(えんまんい)座(のち金春(こんぱる)座)、坂戸(さかど)座(のち金剛(こんごう)座)、外山(とび)座(のち宝生(ほうしょう)座)、結崎(ゆうざき)座(のち観世(かんぜ)座)の四座(よざ)は、興福寺薪(たきぎ)猿楽、春日若宮(かすがわかみや)おん祭などに参勤し、興福寺所属の猿楽として勢力を伸長した。さらに室町初期に結崎座の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子が京都へ進出、足利(あしかが)3代将軍義満(よしみつ)の愛顧を受けたことによって、大和猿楽四座の立場はいっそう強固なものとなった。元来は物真似(ものまね)本位で動きの激しい鬼能(おにのう)などを本領とする芸風であったが、観阿弥が歌舞の要素を強化し、世阿弥がそれに高雅優美な表現を加えて芸術性を高めた。戦国時代には大和猿楽も危機に瀕(ひん)するが、金春座をひいきにした豊臣(とよとみ)秀吉は大和猿楽四座を猿楽諸座の代表とし、ここに丹波(たんば)猿楽、宇治猿楽など他座の役者を所属させて扶持(ふち)し、徳川家康もその政策を継承したので、大和猿楽四座のみが猿楽の命脈を伝えるに至った。やがて本拠を江戸に移し、江戸初期に成立した喜多(きた)流を加えて四座一流が江戸幕府保護の猿楽と定められ、それが今日の能のシテ方五流(観世流、金春流、宝生流、金剛流、喜多流)となった。

[小林 責]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大和猿楽」の解説

大和猿楽
やまとさるがく

大和国を拠点とし,興福寺などの寺社に神事祭礼奉仕の義務を負った猿楽の座。外山(とび)(宝生)・結崎(ゆうざき)(観世)・坂戸(さかど)(金剛)・円満井(えんまんい)(金春)の四座が有名。観世座が京都に本格的に進出し,足利将軍の愛顧をうけたことから,武家社会に用いられるようになった。近世までには大和猿楽四座の勢力が他を圧倒し,豊臣秀吉が他の群小猿楽の役者を四座に所属させ,猿楽配当米を与えて後援し,江戸幕府もそれを踏襲したので,他座は消滅した。

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世界大百科事典(旧版)内の大和猿楽の言及

【御祭猿楽】より

…両日の分ともに明治初年の混乱期に金春座だけが参勤したときの形式をほぼ踏襲している。1136年(保延2)の若宮祭始行以来,祭礼(当初は9月17日)の賑神(しんしん)芸能は田楽が中心で,猿楽の役割は少なかったが,室町時代になると猿楽が中心となり,同時に大和猿楽四座に参勤の義務が課せられることになった。四座は松之下の行列に加わり,金春,金剛は〈弓矢ノ立合〉を,観世,宝生は〈舟ノ立合〉を松の下で舞い,後日能も四座が10番程度演じるようになった(このころから式日は11月27日が多くなる)。…

【猿楽】より

…また南北朝から室町初期にかけて猿楽者の集団は座の体制をとるようになり,各地に猿楽の座が存在した。なかでも大和猿楽の四座,近江猿楽六座が名高く,ことに大和の結崎(ゆうざき)座の観阿弥世阿弥父子によって今日の能の基礎が固められるのである。
[猿楽の役者]
 当時の有名な役者たちを挙げると,〈田楽〉の一忠・花夜叉・喜阿弥・高法師(松夜叉)・増阿弥(〈田楽〉も猿楽とさして距離をおかぬものであって,世阿弥伝書にも総合的に論じられている),近江猿楽の犬王(いぬおう),大和猿楽の金春権守(こんぱるごんのかみ)・金剛権守などである。…

【薪能】より

…薪猿楽執行の初めは明らかではないが,平安中期ころと推定される。世阿弥の《風姿花伝(ふうしかでん)》神儀に,〈大和国春日御神事相随申楽四座〉とあり,興福寺の修二会には大和猿楽が参勤の義務を負っていたことが知られる。修二会の前行事として行われる薪の宴の神事は,諸神を勧請するために焚く薪を採るもので,西金堂は河上,東金堂は氷室の両社から薪が運ばれ,法呪師(ほうしゆし)(呪師)が四民安穏・厄難駆除の悪魔払い,鬼やらいをした。…

【多武峰猿楽】より

…談山神社は明治以降の名で,古くは神仏混交で妙楽寺と寺社総合して単に多武峰と呼ばれることが多かった。世阿弥の《申楽談儀(さるがくだんぎ)》,金春(こんぱる)禅竹の《円満井(えんまい)座壁書》《明宿(めいしゆく)集》には,多武峰参勤が大和猿楽四座の義務であったことが述べられており,例年10月10日から16日まで催される維摩(ゆいま)八講会に付随して,13,14日に猿楽が演じられ,八講猿楽と呼ばれた。《多武峰年中行事》によると,9月11日の御霊会,9月23日の祭礼にも能が行われている。…

【能】より

…この能の形成には,呪師猿楽や翁猿楽の影響が大きいと考えられるが,具体的な形成過程はわかっていない。 南北朝時代には,諸国の猿楽座の中で大和猿楽近江猿楽が際立つ存在だった。大和猿楽の中心は興福寺支配の4座,すなわち円満井(えんまい),坂戸,外山(とび),結崎(ゆうざき)の座で,これが後に金春(こんぱる)座(金春流),金剛座(金剛流),宝生座(宝生流),観世座(観世流)と呼ばれるようになる。…

※「大和猿楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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