精選版 日本国語大辞典 「観世流」の意味・読み・例文・類語
かんぜ‐りゅう クヮンゼリウ【観世流】
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(1)能の一流派。シテ方五流の一つ。流祖は幼名を観世丸といった観阿弥清次(かんあみきよつぐ)(1333―1384)。結崎座(ゆうざきざ)と称し、円満井(えんまい)座、外山(とび)座、坂戸(さかと)座に次いで興福寺に属し、大和猿楽(やまとさるがく)四座といわれる。1374年(文中3・応安7)以降、足利義満(あしかがよしみつ)の後援を得た観阿弥・世阿弥(ぜあみ)父子は、能を芸術的に大成した。3世は世阿弥の子観世元雅(もとまさ)。足利義教(よしのり)は元雅の従弟(いとこ)の音阿弥(おんあみ)を偏愛し、次の大夫(たゆう)とした。現在の観世家は元雅を世代に数えず、音阿弥を3世としている。音阿弥の子の観世信光(のぶみつ)や、その子観世長俊(ながとし)らが歴代の大夫を支え、また革新的な能をつくって室町末の動乱期を乗り越えた。南北朝以来の四座と、新興の喜多流が「式楽(しきがく)」として江戸幕府の体制に組み入れられると、7世観世元忠(もとただ)や9世観世黒雪(こくせつ)の徳川家康との縁もあり、観世座は筆頭の地位と特権を得た。15世観世元章(もとあきら)が、詞章と演出に大改訂を試みた「明和(めいわ)の改正」も注目される。明治維新の際、22世観世清孝(きよたか)は、徳川慶喜(よしのぶ)とともに静岡に移り、初世梅若実(みのる)、5世観世銕之丞(てつのじょう)(紅雪)らが東京で能の復興に努めた。その際の免状発行権に関する観世宗家との紛争は、1921年(大正10)梅若流樹立へと発展したが、梅若内部の分裂もあり、1954年(昭和29)2世梅若実・六郎一門の観世復帰で落着した。大正から昭和にかけては、24世観世左近(さこん)の政治的手腕もあり、早く梅若から復帰した初世梅若万三郎、6世観世銕之丞(華雪)や、橋岡久太郎(きゅうたろう)、初世観世喜之(よしゆき)らの名手を擁して、圧倒的な流勢を確立した。優美華麗な芸風は時流にのり、観世流の能楽師は各流各役を網羅する能楽協会会員の過半数に近い。宗家25世観世元正(もとまさ)(1930―1990)は左近の養子で清孝の曽孫(そうそん)。その長男が現宗家26世清和(きよかず)(1959― )。財団法人観世文庫を主宰。現在は左近直系の人々、宗家の分家である観世銕之丞家(銕仙(てっせん)会)、観世喜之家(九皐(きゅうこう)会)、梅若六郎家(梅若会)、梅若万三郎家(橘香(きっこう)会)、梅若猶義(なおよし)家、橋岡家などがあり、関西では京観世の系統を引く林、井上家や、片山、大江、大槻(おおつき)、大西、杉浦、浦田、山本、藤井、上田家などがある。それぞれ東京・京都の観世会館ほか、各家の能楽堂を拠点として演能活動を行い、機関誌『観世』をもつ。
(2)能楽小鼓の流派。新九郎派ともいう。観世豊次(とよつぐ)(観世信光(のぶみつ)の孫)を流祖とする。
(3)能楽太鼓の流派。左吉流(さきちりゅう)ともいう。観世吉国(よしくに)(音阿弥の子)を流祖とする。
[増田正造]
『野々村戒三著『能楽史話』(1944・春秋社)』
(1)能のシテ方の一流儀。流儀名は,大和猿楽四座の一つ,結崎(ゆうざき)座の大夫であった流祖観阿弥清次の幼名観世丸に由来。後継世阿弥元清は数多くの能楽論と能の作品を著すが,嫡子元雅(もとまさ)を生前に亡くし,3世は甥の音阿弥(おんあみ)三郎元重。歴代大夫のなかでは,世阿弥伝書などの写本を多く残す7世元忠(宗節),光悦流書体の謡本を残す9世身愛(ただちか)(黒雪),国学者加藤枝直らとともに謡本の改訂を行い,明和改正本を刊行した15世元章が著名。分家の銕之丞(てつのじょう)家は1752年(宝暦2)元章の弟清尚から。明治維新に際し,22世清孝が徳川慶喜に従って一時静岡に移っている間に,初世梅若実・5世観世銕之丞紅雪が東京の能楽界に勢力を伸ばし,やがて観梅両家の不和をもたらし1921年(大正10)梅若流が分離したが,54年(昭和29)復帰した。(2)小鼓方(こつづみかた)観世流。新九郎流ともいう。信光(音阿弥の子)の孫,観世九郎豊次が初世。流祖は鼓の名手宮増弥左衛門親賢という。観世座付。(3)大鼓方(おおつづみかた)観世流。小鼓方観世流の6世新九郎豊重の四男を流祖とする。観世座付であったが,1694年(元禄7)から宝生座付。(4)太鼓方観世流。左吉流ともいう。音阿弥の子,与四郎吉国を流祖とする。4世似我(じが)与左衛門国広は太鼓伝書を記したことで著名。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
… 南北朝時代には,諸国の猿楽座の中で大和猿楽と近江猿楽が際立つ存在だった。大和猿楽の中心は興福寺支配の4座,すなわち円満井(えんまい),坂戸,外山(とび),結崎(ゆうざき)の座で,これが後に金春(こんぱる)座(金春流),金剛座(金剛流),宝生座(宝生流),観世座(観世流)と呼ばれるようになる。結崎座を率いる観世という名の役者(後の観阿弥)は,技芸抜群のうえくふうに富み,将軍足利義満の愛顧を得て京都に進出し,座勢を大いに伸ばした。…
…秀吉は宇治猿楽や丹波猿楽の役者を大和猿楽四座にツレや囃子方として所属させたため,それらの諸座は解体の運命をたどり,結果的に大和猿楽のみが命脈を保つこととなったが,江戸幕府も秀吉の政策を継承し,四座の役者に知行・扶持・配当米を与えて保護した。この四座に江戸初期に一流樹立が認められた喜多流を加えた四座一流が幕府保護の猿楽で,それが今日の五流(観世流,宝生流,金春流,金剛流,喜多流)のもととなった。能【天野 文雄】。…
…結崎が歴史地名として著名なのは,能楽の観世座がその草創期にここに本拠をすえたことによる。観世流の祖観阿弥清次は,伊賀国で成長し,小波多(現,名張市)で一座を結成し,結崎に移って座名も結崎座(ゆうざきざ)と改めたといわれてきた。芸風の上でも経済的にも一座の基礎を固め,結崎座は大和猿楽四座の一つとなった。…
※「観世流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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