(1)能のシテ方の流派名。流祖の観阿弥清次(かんあみきよつぐ)(1333-84)は,南北朝ころ奈良盆地南部で活動したらしい山田猿楽美濃大夫の養子の三男で,通称三郎,芸名を観世という。観阿弥は多武峰(とうのみね)寺や春日興福寺の神事猿楽に《式三番》(《翁》)を務めるための組織であった大和猿楽四座の一つ結崎(ゆうざき)座に所属し,演能集団の代表者である大夫(棟梁の為手(して))として活躍した。座名の観世は彼の芸名に由来する。1374年(文中3・応安7)ころその至芸が将軍足利義満に認められて以来,京都,奈良を中心に流勢を諸国にのばした。その子世阿弥(三郎元清),孫の観世十郎元雅とすぐれた役者が3代続き,彼らは作能・演出・経営の各方面にも画期的な業績を残し,大和猿楽全体の進歩に寄与した。観世元雅は,従弟の三郎元重(音阿弥(おんあみ))を偏愛した足利義教にうとまれ,非凡の才を持ちながら1432年(永享4)30代半ばで父に先立ち,翌年,元重が観世大夫を継承した。元重は晩年まで華々しい活躍を続け,室町幕府との結びつきを強固にした。現在の観世家は元重の流統で,元雅を世数に数えず元重を3世としている。その後大夫は幼少の者が数世続いたが,観世信光(元重の七男),その子観世長俊などがよき後見役として補佐し,危機を脱した。信光・長俊らは作能にも新境地を開いた。室町幕府が傾くと,7世観世左近元忠(観世宗節)は駿河の徳川家康の保護を受け,その孫の9世左近忠親(観世黒雪)も家康に仕えたので,江戸時代は四座一流(観世・金春・宝生・金剛4座と喜多流)の筆頭として流勢を誇り,幕末までその地位は揺るがなかった。その間,15世観世(左近)元章(もとあきら)は,1765年(明和2)謡曲文・演出のすべてにわたる大改革〈明和の改正〉を行ったことで名高い(ただしあまりに急激な改革のため没後は旧に復した)。また元章は1752年(宝暦2),弟織部清尚の〈観世銕之丞(てつのじよう)家〉の樹立を幕府に認めさせ四座一流の家元に準ずる家格が与えられた。同家は家元に嗣子のないとき,その跡を継ぐ格式をもち(17世織部清尚,19世織部清興は銕之丞家の初世と2世である),また幼い家元の後見役を務める家柄である。観世流の幕末までの伝承曲は,内組110番・外組62番に別能28番を加えた200番である。
明治維新のとき,22世三十郎清孝(1837-88)は前将軍に従って静岡に引きこもったので,東京の観世流は,初世梅若実と分家5世観世銕之丞(紅雪)とによって守られ,衰滅を免れて復興にむかったが,これが遠因となっていわゆる梅若問題(免状発行をめぐる紛争)が生じた。梅若は丹波猿楽の旧家だが(旧姓梅津),15世紀後半,景久の代に京都に進出,その芸が後土御門天皇の意にかなって梅若大夫の称をもらったという。その後,梅若妙音大夫や梅若玄祥らが出,観世大夫のツレを務めるなどし,織田信長,徳川家康の後援を受け,江戸時代は観世座のツレの家として公認された。維新の際,離京した観世清孝に代わって孤塁を守った梅若六郎(のちの初世梅若実)は,しだいに流勢を挽回し,くろうと・しろうとの門弟にみずから免状を発行するに至った。これは旧来家元の有していた特権を侵したことになる。しかし遅れて後に帰京した清孝には苦情をいうだけの社会的な力もなく,未解決のまま2人は世を去った。23世清廉(きよかど),京都の片山家から入った24世元滋(もとしげ)(のちの観世左近)と世が移ると,家元側もしだいに勢力をもりかえし,梅若六郎(2世梅若実)との間に免状問題が再燃した。梅若は既得権益として離さず,種々の調停も不調に終わり,1920年梅若一門は観世流から除名された。その結果,能界の旧習によって三役(ワキ方・狂言方・囃子方)の共演を得られなくなった梅若側は,独自に三役を集め,六郎は実兄の梅若万三郎(分家を相続),義弟の観世銕之丞(観世華雪)とともに翌21年新流の梅若流を樹立した。梅若流の初世家元には万三郎が就任したが,7年後に辞任,本家の六郎が家元となり,1948年六郎の隠居とともにその長男の六郎が3世を継いだ。一方,梅若一門を破門した24世観世左近(1895-1939)は優れた政治的手腕をもち,梅若問題を契機として逆に流内の統一と流勢の発展に努めたので,家元の権力は大となり,その後の隆盛の基を作った。各派に分かれていた謡の統一を図った〈観世流謡本大成版〉の発行(205番,1940)も左近の功績の一つである。他方,梅若流は内紛などのため力を失い,1929年に銕之丞が,33年に万三郎が観世流に復帰し,54年には2世実らも屈服して帰流し,梅若流33年の歴史を閉じた。現在も〈梅若派〉と呼ばれ,独自の謡本も発行している。25世観世元正(1930-90)は,22世清孝の次男次郎の孫で,幼時,24世左近の養嗣子となり25世を継いだ。
観世流の名家には,観世銕之丞家と梅若六郎家,銕之丞家の分家の観世喜之(よしゆき)家,六郎家の分家の梅若万三郎家があり,そのほか東京には橋岡,京都には京観世の流れをくむ井上・林,24世左近の生家の片山家,大阪には山階・大西・生一(きいち)家などがある。家元の下にこれら職分家があり,その下に師範が所属し,1983年現在の観世流の勢力は,公認のくろうとが全国で約700名もおり(最も少ない喜多流の15倍),シテ方随一の流勢を誇っている。現行曲は209番。
(2)能の小鼓方の流派名。観世新九郎流ともいう。家伝では芸系の上から宮増弥左衛門親賢(1482-1556)を流祖とするが,新九郎家の事実上の初代は観世信光の孫の2世観世九郎豊次(のち彦右衛門。1525-85)。代々多くは観世新九郎と称する。江戸時代は主として観世の座付で,小鼓方筆頭の地位にあった。1888年13世新九郎豊成の没後,長男宮増豊好(維新後,宮増姓を名のる)は家芸を継がず,豊成の門弟の湯浅平次が継いだが翌年没したため,しばらく家元不在が続いたが,のちに金沢の石浦通宏が宮増家に入籍し再興した。現在,職分には家元の宮増純三(豊次から数えて16世)と兄の敷村鉄雄らが東京におり,能楽協会に登録された同流の役者は約10名。この流儀の特徴は甲(かん)の音を多用することと,三ツ地の第5拍に掛声がないことなどである。
(3)能の太鼓方の流派名。観世左吉流ともいう。流祖は観世与四郎吉国(音阿弥の子。1440-93)で,太鼓方金春流の流祖金春三郎豊氏の門人。その後,2世檜垣本(ひがいもと)与五郎吉久(1483-1518),3世檜垣本次郎大夫国忠(1468-1540),4世似我(じが)与左衛門国広(1500?-80)と受け継がれ,とくに国広は名人として聞こえ,数種の太鼓伝書を著した。国広の没後,5世与五郎が早世したため,金春又右衛門重家が家名を預かり,のち長男左吉重次(1595-1658)に観世家を継がせ,この7世重次から観世姓となった。江戸時代は観世の座付。重次をはじめ数代にわたって名手が輩出した。明治維新当時の家元15世観世元規(もとき)(1844-1924)はシテ方観世流の家元と進退をともにして静岡に下ったが,のち東京に戻り活躍し,近代の名人として名高い。現在の家元は16世観世元信(もとのぶ)(1931- ,元規の孫)で,能楽協会に登録されている同流の役者は東京,名古屋,京都を中心に約20名。芸風は,金春流に比べ地味で力強い奏法で,桴(ばち)扱いは直線的,鋭角的で,掛声の場所やその発声法にも古風を残している。
執筆者:西野 春雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(1)能の一流派。シテ方五流の一つ。流祖は幼名を観世丸といった観阿弥清次(かんあみきよつぐ)(1333―1384)。結崎座(ゆうざきざ)と称し、円満井(えんまい)座、外山(とび)座、坂戸(さかと)座に次いで興福寺に属し、大和猿楽(やまとさるがく)四座といわれる。1374年(文中3・応安7)以降、足利義満(あしかがよしみつ)の後援を得た観阿弥・世阿弥(ぜあみ)父子は、能を芸術的に大成した。3世は世阿弥の子観世元雅(もとまさ)。足利義教(よしのり)は元雅の従弟(いとこ)の音阿弥(おんあみ)を偏愛し、次の大夫(たゆう)とした。現在の観世家は元雅を世代に数えず、音阿弥を3世としている。音阿弥の子の観世信光(のぶみつ)や、その子観世長俊(ながとし)らが歴代の大夫を支え、また革新的な能をつくって室町末の動乱期を乗り越えた。南北朝以来の四座と、新興の喜多流が「式楽(しきがく)」として江戸幕府の体制に組み入れられると、7世観世元忠(もとただ)や9世観世黒雪(こくせつ)の徳川家康との縁もあり、観世座は筆頭の地位と特権を得た。15世観世元章(もとあきら)が、詞章と演出に大改訂を試みた「明和(めいわ)の改正」も注目される。明治維新の際、22世観世清孝(きよたか)は、徳川慶喜(よしのぶ)とともに静岡に移り、初世梅若実(みのる)、5世観世銕之丞(てつのじょう)(紅雪)らが東京で能の復興に努めた。その際の免状発行権に関する観世宗家との紛争は、1921年(大正10)梅若流樹立へと発展したが、梅若内部の分裂もあり、1954年(昭和29)2世梅若実・六郎一門の観世復帰で落着した。大正から昭和にかけては、24世観世左近(さこん)の政治的手腕もあり、早く梅若から復帰した初世梅若万三郎、6世観世銕之丞(華雪)や、橋岡久太郎(きゅうたろう)、初世観世喜之(よしゆき)らの名手を擁して、圧倒的な流勢を確立した。優美華麗な芸風は時流にのり、観世流の能楽師は各流各役を網羅する能楽協会会員の過半数に近い。宗家25世観世元正(もとまさ)(1930―1990)は左近の養子で清孝の曽孫(そうそん)。その長男が現宗家26世清和(きよかず)(1959― )。財団法人観世文庫を主宰。現在は左近直系の人々、宗家の分家である観世銕之丞家(銕仙(てっせん)会)、観世喜之家(九皐(きゅうこう)会)、梅若六郎家(梅若会)、梅若万三郎家(橘香(きっこう)会)、梅若猶義(なおよし)家、橋岡家などがあり、関西では京観世の系統を引く林、井上家や、片山、大江、大槻(おおつき)、大西、杉浦、浦田、山本、藤井、上田家などがある。それぞれ東京・京都の観世会館ほか、各家の能楽堂を拠点として演能活動を行い、機関誌『観世』をもつ。
(2)能楽小鼓の流派。新九郎派ともいう。観世豊次(とよつぐ)(観世信光(のぶみつ)の孫)を流祖とする。
(3)能楽太鼓の流派。左吉流(さきちりゅう)ともいう。観世吉国(よしくに)(音阿弥の子)を流祖とする。
[増田正造]
『野々村戒三著『能楽史話』(1944・春秋社)』
(1)能のシテ方の一流儀。流儀名は,大和猿楽四座の一つ,結崎(ゆうざき)座の大夫であった流祖観阿弥清次の幼名観世丸に由来。後継世阿弥元清は数多くの能楽論と能の作品を著すが,嫡子元雅(もとまさ)を生前に亡くし,3世は甥の音阿弥(おんあみ)三郎元重。歴代大夫のなかでは,世阿弥伝書などの写本を多く残す7世元忠(宗節),光悦流書体の謡本を残す9世身愛(ただちか)(黒雪),国学者加藤枝直らとともに謡本の改訂を行い,明和改正本を刊行した15世元章が著名。分家の銕之丞(てつのじょう)家は1752年(宝暦2)元章の弟清尚から。明治維新に際し,22世清孝が徳川慶喜に従って一時静岡に移っている間に,初世梅若実・5世観世銕之丞紅雪が東京の能楽界に勢力を伸ばし,やがて観梅両家の不和をもたらし1921年(大正10)梅若流が分離したが,54年(昭和29)復帰した。(2)小鼓方(こつづみかた)観世流。新九郎流ともいう。信光(音阿弥の子)の孫,観世九郎豊次が初世。流祖は鼓の名手宮増弥左衛門親賢という。観世座付。(3)大鼓方(おおつづみかた)観世流。小鼓方観世流の6世新九郎豊重の四男を流祖とする。観世座付であったが,1694年(元禄7)から宝生座付。(4)太鼓方観世流。左吉流ともいう。音阿弥の子,与四郎吉国を流祖とする。4世似我(じが)与左衛門国広は太鼓伝書を記したことで著名。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 南北朝時代には,諸国の猿楽座の中で大和猿楽と近江猿楽が際立つ存在だった。大和猿楽の中心は興福寺支配の4座,すなわち円満井(えんまい),坂戸,外山(とび),結崎(ゆうざき)の座で,これが後に金春(こんぱる)座(金春流),金剛座(金剛流),宝生座(宝生流),観世座(観世流)と呼ばれるようになる。結崎座を率いる観世という名の役者(後の観阿弥)は,技芸抜群のうえくふうに富み,将軍足利義満の愛顧を得て京都に進出し,座勢を大いに伸ばした。…
…秀吉は宇治猿楽や丹波猿楽の役者を大和猿楽四座にツレや囃子方として所属させたため,それらの諸座は解体の運命をたどり,結果的に大和猿楽のみが命脈を保つこととなったが,江戸幕府も秀吉の政策を継承し,四座の役者に知行・扶持・配当米を与えて保護した。この四座に江戸初期に一流樹立が認められた喜多流を加えた四座一流が幕府保護の猿楽で,それが今日の五流(観世流,宝生流,金春流,金剛流,喜多流)のもととなった。能【天野 文雄】。…
…結崎が歴史地名として著名なのは,能楽の観世座がその草創期にここに本拠をすえたことによる。観世流の祖観阿弥清次は,伊賀国で成長し,小波多(現,名張市)で一座を結成し,結崎に移って座名も結崎座(ゆうざきざ)と改めたといわれてきた。芸風の上でも経済的にも一座の基礎を固め,結崎座は大和猿楽四座の一つとなった。…
※「観世流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新