織幡村(読み)おりはたむら

日本歴史地名大系 「織幡村」の解説

織幡村
おりはたむら

[現在地名]小見川町織幡

内野うちの村の西方幡鉾はたほこ村の北に位置する。平安時代末より香取社領の一つで、葛原くずはら牧に属した。地内の花見寺跡に建武五年(一三三八)・康永四年(一三四五)銘、密蔵みつぞう寺跡付近に貞治二年(一三六三)・天正二一年(文禄二年、一五九三)銘などの常総系板碑がある。

〔古代・中世〕

嘉承―長承(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下同文書は省略)に先祖の豊郷以来一〇代相伝の私領として「葛原牧内以南織幡村壱所」とある。同譲状によれば四至は東が海上木内うなかみきのうち境、南が千田ちだ(現多古町)境、西が福田ふくだ相根おおね(現佐原市)境、北が太田ただ(多田)吉原よしわら大畠おおはた(現同上)境となっており、葛原牧内の南半分を占めたとされる当村は現在の佐原市下小野しもおの返田かやだなども含んだことになる。ただし同譲状や応保二年(一一六二)六月三日の大禰宜実房譲状断簡などの平安時代末期の譲状は同時代の文書ではない可能性もあり、当村を含む大禰宜家領(私領)の成立は鎌倉時代中期以降のことであったとみられる。そのため保元元年(一一五六)一〇月、大中臣惟房は葛原牧内の織幡村と小野村(現佐原市)領掌を安堵されるが(関白家政所下文)、応保二年閏二月には香取社大宮司となった鹿島社中臣氏系の中臣助重に対して、「織服・小野・綱原三箇村」の知行が認められている(関白家政所下文)

鎌倉時代前期までの織幡・小野両村に対する大禰宜と大宮司の知行権をめぐる争いは、大宮司職領と大禰宜職領の固定化をめぐるものであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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