羽島浦(読み)はしまうら

日本歴史地名大系 「羽島浦」の解説

羽島浦
はしまうら

中世には薩摩郡成枝なりえだ名に含まれていた。成枝名は薩摩国建久図田帳に、公領のうちで成枝八六町、郡司は忠友とある。薩摩郡は国衙近傍の郡であり、在庁官人の勢力が強かった。羽島浦の正原田一町・大苗代五段余・西原田一町五段余・秦三郎作七段余は薩摩国大目伴信明先祖相伝の所領で、文治三年(一一八七)に嫡女三子が妹に譲っている(同年一〇月二五日「伴三子譲状」延時文書)。この妹が薩摩平氏の一流薩摩郡司平忠友に嫁したと思われる。また寿永二年(一一八三)には羽島浦が牟木むぎ(現川内市)とともに大蔵氏尼から忠友に譲られた。承久二年(一二二〇)肥後国住人西山道房の娘紀氏の夫相良長継は手継証文を添えて、同浦などの相伝を鎌倉幕府に訴えたが、忠友が紀氏の祖母大蔵氏尼から譲られて以来、問題なく知行してきたことを理由に、貞応二年(一二二三)忠友勝訴の判決が出されている(同年四月日「関東下知状」旧記雑録)。寛喜三年(一二三一)忠友は羽島浦の小苗代四反などの水田一〇町と畠を子息の忠富に譲っているが(同年二月一九日「平忠友譲状」延時文書)、他は嫡男の忠持(忠茂)に譲ったものと思われる。寛元元年(一二四三)九月一三日に忠持は、羽島成枝分本郡役・臨時役の本成枝内六分の一を勤仕すること、山野狩倉は違乱なく狩るという条件つきで、「羽島浦加成枝定」などを子息忠重(徳夜叉丸)に譲った(「平忠茂譲状」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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