脇浦
わきのうら
北に響灘を望む浦で、近世には小竹村の枝郷として扱われた。同村の本村内小嶽の北、外小嶽の西にあたり、脇ノ浦とも記した(「続風土記附録」など)。文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(麻生文書/筑前麻生文書)に「二嶋内脇浦」とみえ、麻生弘家の支配する二島庄内の浦であった。弘治三年(一五五七)には白島の漁場をめぐって当浦・脇田浦と柏原浦(現芦屋町)との間で相論が生じている(→白島)。慶長国絵図には尾竹村のうちとして「脇浦」とある。元和九年(一六二三)の黒田忠之浦并水夫等目録(松本家文書)によると、水夫二一人・丸木船一九艘。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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