小竹村(読み)おだけむら

日本歴史地名大系 「小竹村」の解説

小竹村
おだけむら

[現在地名]伯太町上小竹かみおだけ下小竹しもおだけ

赤屋あかや村・福富ふくどめ村の南に位置し、南の伯耆境に鷹入たかいり(高入山とも。七〇六メートル)がそびえる。同山頂の東側に伯耆へ抜ける山道の永江ながえ峠があり、「郷方古今覚書」に「小竹村より、伯州下粟谷村迄、廿六町三十間」とある。鷹入山には出雲振根(イズモタケル)の伝説があり、永江峠一帯の山塊は「出雲国風土記」意宇おう母理もり郷条にみえる長江ながえ山とされる。長久二年(一〇四一)に作成されたと伝える天神勧請式目(天満宮文書)に「おたけ分はたのやま名 弐百文尻」とみえる。「はたのやま」は畑の山はたのやまのことであろう。上小竹の矢原やばらには矢原城砦があり、その付近に古城口こじようぐち人見岩ひとみいわ(見張所か)・もんや(門谷)御殿跡ごてんあと馬乗馬場ばじようばば溜池ためいけなどの地名がある。一四世紀頃、地頭山田七郎入道が居住していたとみられる。千法せんぼうには半壊した五輪塔が五―六基、亀田かめだの溜池下「さんまい」(三昧)には移された五輪塔二〇基があり、ほとけみねには阿能伊予守夫妻の梵字塔(高さ四尺・幅六尺の石垣の上に高さ二尺六寸・横三尺の石造)がある。

小竹村
こだけむら

[現在地名]日田市小野おの 源栄町もとえまち殿町とのまち鈴連町すずれまち

はやし村の北の上小竹、林村の南の下小竹からなる。天文一五年(一五四六)日田郡八奉行として置かれた佐藤永信の城は地内安禅あんぜん(安静寺ともみえる)の上の山という(日田郡志)。「日田造領記」などによると、郡老佐藤氏は津江つえの長谷部家の臣であったが、同氏滅亡後日田氏に仕えたとされ、日田家滅亡後、郡務八人に選ばれた。塁は小竹にあったという。当時の惣領は「日田造領記」「豊西記」「豊後国志」は佐藤出雲守永信、「日田記」「大友家文書録」は佐藤山城守永信とする。「正任記」文明一〇年(一四七八)一〇月三日条に日田家人佐藤右京進がみえ、永禄五年(一五六二)から同九年頃の間の五月五日の上筑後衆中宛大友氏加判衆連署書状(佐藤文書)に佐藤中務丞の派遣がみえるが、永信との関係は未詳。

小竹村
おだけむら

[現在地名]富山市呉羽町くれはまち呉羽町西くれはまちにし呉羽町北くれはまちきた

呉羽山くれはやま丘陵の北西部、同丘陵から射水平野の低地に移る台地上に位置。中世は寒江さぶえ庄のうち。上杉輝虎(謙信)が越中へ侵攻した際、当地の姉倉比売あねくらひめ神社に五箇条の願文(姉倉比売神社文書)を奉納、永禄七年(一五六四)六月二四日付で「越中国婦負郡惣社寒江庄大竹村 正一位姉倉比売神社」とみえる。婦負郡に属し、元和八年(一六二二)の花木新村一村建許可状(海内家文書)に当村与左衛門の名がみえる。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。うしくび用水の開削により開発が進み、正保郷帳では高一千四七二石余、田方八二町余・畑方一六町余、新田高四八石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高一千五七九石余・定免五ツ二歩八厘、銀納畑計四万七千三八八歩。

小竹村
おだけむら

[現在地名]若松区小竹

弥勒みろく山などを境に畠田はたけだ村の北に位置する。北は海(響灘)に面し、東は小石こいし村、西は頓田とんだ村。村の西部にはく(小嶽山)がそびえる。内陸部の白山南麓に位置する内小嶽うちおだけ(内小岳とも)が本村にあたり、ほかに響灘に臨む白山東麓の外小嶽(外小岳とも)、外小嶽の西方には浦方の枝郷脇浦わきのうらがあった。「続風土記拾遺」は内小嶽・外小嶽のほかに集落として紙屋谷かみやだに椿谷つばきだにをあげ、「地理全誌」はこれに鮎川あゆがわ(相川)平川ひらかわ鬼坂おにがさか唐木からき山口やまくちを加える。なお小竹は小嶽の誤記という(「続風土記」など)。康暦二年(一三八〇)二月八日に小竹安養寺(現廃寺)に寄進された梵鐘の追銘(古鐘銘集成)に「山鹿庄散在二島内小岳山安養寺」とみえ、院主僧鎌秀によって梵鐘が寄進されている。

小竹村
おだけむら

[現在地名]鹿島町小竹

内浦街道に沿い、南は久江くえ村・水白みじろ村、西は尾崎おさき村・東馬場ひがしばば村。南側を小竹川が西流し、集落は小竹と谷内小竹やちおだけの二垣内に分れる。天正五年(一五七七)一一月一日、一宮気多社が当時能登国を占領していた越後上杉氏に宛てた免田指出案(気多大宮司家文書)に「小竹村見しろ村」とみえ、二月役(おいで祭料)として同社の衆徒方に毎年八貫文を進納していた。また同八年六月の羽咋はくい郡菱脇(現羽咋市)の合戦に際し、勝利の余勢をかった長連竜軍が、敗北した温井・三宅勢の拠る鹿島郡横大道筋の小竹・東馬場両砦にまで進撃したため、小竹砦の守将成田武安らがこれを捨てて逃れた(長家譜)

小竹村
こだけむら

[現在地名]名和町小竹

倉谷くらだに村の南西、真子しんじ川の中流左岸に位置する。中世には一帯にたけ庄が成立していたという。藩政期の拝領高二〇九石余、本免五ツ三歩。給人所付帳によると森氏の給地があった。天保三年(一八三二)の山林反別は三町六反余、竹運上銀一九匁三分余が課せられていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二九六石余、竈数五一。森氏の物成米は淀江よどえ(現淀江町)の長尾屋に納められた。御立山があったが木は生育しておらず、寛保二年(一七四二)おか(現中山町)居住の医師谷玄庵は、塩津しおつ(現同上)にある自己所有の山と小竹御立山を交換、開墾を願出て許可されている。

小竹村
おだけむら

[現在地名]小田原市小竹・山西やまにし

東は淘綾ゆるぎ中里なかざと(現中郡二宮町)、南は小船おぶね村、西は沼代ぬましろ村、北は足柄上あしがらかみ遠藤えんどう(現中井町)に接し、村中を押切おしきり川が流れる。天文一九年(一五五〇)七月一七日の北条家朱印状(県史三)には「下中村上町分之内四貫弐百七拾八紋、小竹江就被混乱」、天文一〇年の下中村上町検地帳を添えた同日付の北条家朱印状(同書)には「小竹上町問答之地八反半廿歩、庚戌之歳上町へ被落居候」とあり、帰属をめぐって上町かのまち村と当村が相論していた八反半二〇歩の土地が、この年上町に属すことが決められている。

小竹村
おだけむら

[現在地名]高岡市小竹

祖父そふ川の下流左岸に位置。射水いみず郡の南西界に近く、北は中保なかほ村、東は本保ほんぼ村、西は駒方こまがた村、南は今市いまいち村。慶長九年(一六〇四)一〇月五日の前田利長判物(「内嶋組御判物等」五十嵐家文書)に「おたけ村」とみえる。正保郷帳では高八二〇石余、田方五三町七反余・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七五九石・免三ツ五歩(三箇国高物成帳)

小竹村
おだけむら

[現在地名]佐倉市小竹・ユーカリおか一丁目・同五丁目

印旛いんば沼の南西、手繰たぐり川左岸に位置し、東対岸は臼井うすい村。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四〇〇石、佐倉藩領で以後幕末まで同じ。宝永四年(一七〇七)の検地帳(佐倉市史)によると田三六町余・畑屋敷一町四反余(うち屋敷一町一反余)、名請人数五六。

小竹村
おだけむら

[現在地名]氷見市小竹

いずみ川の上流で、大師だいしヶ岳・鉢伏はちぶせ山・しろ山に囲まれ、北は上田子かみたこ村。正保郷帳では高一七四石余、田方九町・畑方二町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一八〇石・免六ツ七歩、小物成は山役二四匁(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の百姓二一(「高免等書上帳」折橋家文書)

小竹村
おだけむら

[現在地名]古賀市小竹

小岳村とも記した(正保郷帳)犬鳴いぬなき山の西方に位置し、北は青柳あおやぎ村、西は三代みしろ(現新宮町)。小早川時代の指出前之帳では小竹村の田一七町八反余(分米一九九石余)・畠一七町余(分大豆九一石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高四六〇石余(慶長石高帳)

小竹村
こだけむら

[現在地名]出雲崎町小竹

上野山うえのやま村の東、北は中条なかじよう村、東は沢田さわだ村、南の米田こめだ村とは地境が不分明。米田村の集落を挟んで南に上小竹、北に下小竹の集落がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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