興野村(読み)きようのむら

日本歴史地名大系 「興野村」の解説

興野村
きようのむら

[現在地名]烏山町興野

那珂川を挟んで滝田たきた村の東方対岸、二段からなる河岸段丘上にある。蛇行しながら南流する同川によって北・西・南を画され、東は大沢おおさわ村、西から南にかけては烏山城下宮原みやばら村など。文明四年(一四七二)四月二八日の那須資持充行状(平沼伊兵衛氏所蔵文書)で「那須之内興野・大沢」両村が興野備中に与えられている。地内に興野(味城)館跡があり、同年那須資持の次男興野持隆(備中)築城を伝える。那須氏一族の興野氏は同館を拠点に一帯に勢力があったと思われ、大永二年(一五二二)三月二三日には興野式部が岩城氏との戦いの功により大木須おおぎす村を与えられている(「那須資房充行状」同文書)。その後、当地は那須・佐竹両氏の攻防の地となり、永禄一三年(一五七〇)と推定される五月二七日の佐竹義重書状写(秋田藩家蔵文書)によれば佐竹勢が侵入、年未詳二月二七日の佐竹義重書状(松野文書)によると佐竹義重麾下の松野次郎左衛門尉が当地に攻め入り戦功をあげている。興野氏は天正一八年(一五九〇)那須氏改易とともに当地を去り、のち黒羽藩主大関氏の家臣となった。

江戸時代を通じ烏山藩領で、畑方年貢米納の村。


興野村
おきのむら

[現在地名]足立区興野一―二丁目・西新井本町にしあらいほんちよう一丁目・同三―五丁目など

西新井村の南に位置し、東と南は本木もとき村、西は高野こうや村。見沼代みぬまだい用水本木堀沿いを西新井大師に至る道(大師道)が通る。田園簿に村名がみえ、田六二七石余・畑九九石余。元禄郷帳では高五五一石余に減少している。飛地が東方の小右衛門こえもん新田島根しまね村のうちにある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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