芝原城跡(読み)しばはらじようあと

日本歴史地名大系 「芝原城跡」の解説

芝原城跡
しばはらじようあと

[現在地名]徳島市国府町芝原

高野山真言宗蔵珠ぞうしゆ院および東隣の八幡神社付近にあったと推定される。南方水田よりも一段高くなっているため城跡らしい面影を伝えているが、遺構はまったく残っていない。城主久米氏で(城跡記・古城諸将記)、永正四年(一五〇七)からの細川両家の乱の際の同一六年一一月、三好之長とともに細川高国方攻撃のため摂津国へ出兵した阿波の国衆の中に久米氏の名がみられることから(「細川両家記」など)、この頃すでに阿波の有力国衆であったと考えられる。天文二一年(一五五二)八月、阿波国を実質的に支配していた三好義賢(之虎・実休)が守護細川持隆を殺害すると、持隆旧功の臣であった芝原城主久米安芸守義広は婿でもある義賢を討つため兵を挙げ、翌二二年に野田山のだやま城主野田内蔵助(一説に佐那河内城主ともいう)はなぶさ城主仁木日向守高将、佐野須賀さのずか城主佐野丹波守、蔵本くらもと城主小倉佐助らとともに、義賢の妹婿の一宮城主一宮長門守成祐(成助)を攻撃した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報