日本歴史地名大系 「花崎村」の解説 花崎村はなさきむら 青森県:八戸市花崎村[現在地名]八戸市尻内(しりうち)町 館ノ後(たてのうしろ)・館ノ前(たてのまえ)・与助往名添(よすけおうなぞえ)・高田(たかだ)・赤坂(あかさか)八戸城下の西、浅水(あさみず)川の下流右岸の沖積地に位置する。東と北は根市(ねいち)村、西は大仏(だいぶつ)村、南は大仏村・矢沢(やざわ)村に接する。櫛引(くしひき)八幡宮の経櫃に「大檀那菊池武義 応永廿肆太歳丁酉年七月一日 五戸羽禰崎初百内福王寺」との記銘がみえ、「羽禰崎」は花崎と考えられる。「福王寺」については不明であるが、菊池氏は七崎(ならさき)(現豊崎町)の普賢(ふけん)院の献額にその名がみえ、嘉永(一八四八―五四)の頃の八戸領内絵図(上杉家蔵)に大仏村について「南朝後大仏陸奥守落居」と記されていることを考え併せると、応永後期には南朝にかかわる人物がいたとも推定される。 花崎村はなさきむら 富山県:上新川郡大山町花崎村[現在地名]大山町花崎大川寺(だいせんじ)丘陵末端の麓に連なる村で、村名は端崎であったものが、二代富山藩主前田正甫の代に花崎と改めたという。東は中滝(なかだき)村、南を熊野(くまの)川が流れて、村の西端の一部を灌漑する。西は上大浦(かみおおうら)村。加賀藩領から万治三年(一六六〇)以降富山藩領。正保郷帳の高四五三石余、田方二六町九反余・畑方三町二反余、新田高五二石余。明暦二年(一六五六)の村御印では草高五四二石、免四ツ四歩、小物成は野役不明・鮎川役六匁(村々御印物等書上)。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高五五一石(定免四ツ六歩)・新田高一石余(免八歩)、定小物成は野役銀四七匁・鮎川役六匁・鱒川役一匁・鮭川役一匁・月岡(つきおか)野増役銀二二匁三分で、銀納立林五千二〇〇歩がある。 花崎村はなさきむら 埼玉県:加須市花崎村[現在地名]加須市花崎・花崎北(はなさききた)南東から南は青毛堀(あおげぼり)川を境とし、北から東は南篠崎(みなみしのざき)村、西は久下(くげ)村。天正二年(一五七四)と推定される五月四日付の北条氏繁書状(並木文書)に「花崎」とみえる。同一八年六月五日付の北条家印判状(鷲宮神社文書)に、鷲宮(わしのみや)神社(現鷲宮町)領として「花崎之内」一三貫五〇〇文が載る。年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)によれば菖蒲(しようぶ)領に属し、花崎(物成は一六貫文)は同社領であった。同社の文禄四年(一五九五)八月の棟札にも「花崎半分」とみえ、神領として記されている。羽生(はにゆう)領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月水野清六郎(忠保)は、徳川氏から当村で二六三石余、花崎開発地で一五〇石、同所改出で一四石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by