日本歴史地名大系 「鷲宮神社」の解説
鷲宮神社
わしのみやじんじや
〔社名・創建〕
浮き島大明神とも称し、「風土記稿」によれば古代の土師連が祀る土師宮が鷲宮に転じたものであるという。中世史料には「吾妻鏡」建久四年(一一九三)一一月一八日条をはじめ鷲宮と表記する例が多く、まれに鷲大明神とし、江戸時代には田園簿では鷲ノ宮村の明神、元禄郷帳では鷲宮大明神、「風土記稿」では鷲明神社とされる。創建年代はつまびらかではないが、江戸時代成立の鷲宮大明神由来略記(鷲宮神社文書、以下断りのない限り旧蔵を含め同文書)などによれば、創建は天穂日命とその子武夷鳥命が二七の氏族を率いて当地に入植、まず国土経営の神である大己貴命を祀る
〔武家崇敬〕
「神道集」巻六三島大明神事に、伊予の大三島大明神が東征して伊豆に移ったとき、「ワシノ大明神」が太田庄に鎮座したとあるが、これは当社の成立を示すものではなく、同庄在地神に鷲明神が習合したことや、鎌倉幕府が関東の最も尊重すべき神社として鎌倉鶴岡八幡宮などとともに当社を崇敬するに至ったことを示す伝承であろう。鎌倉時代の太田庄は関東御領であったと思われ、幕府の尊崇を受けていたことは「吾妻鏡」に繰返しみられる。建久四年「鷲宮」の宝前に血が流れる凶事があり、卜筮の結果、兵革の兆しであると出たため、幕府は榛谷重朝を使者に立てて鹿毛の神馬を奉納するとともに血で穢れた社壇の荘厳を命じている(「吾妻鏡」前掲条・同一九日条)。建仁三年(一二〇三)一〇月一四日源実朝は比企能員の乱が鎮圧された報賽として、当社など東国の諸社に神馬を奉納している(同書同日条)。建長三年(一二五一)四月幕府が鷲大明神に奉幣使を派遣する際、伊豆三島明神の神事の最中なので支障があると神主から申立てがあったため、代わりに鶴岡若宮別当法印隆弁を鷲宮に出向させ、神前で神楽を行ったところ見事な託宣が現れて祈願が成就したという(同書四月一三日条・同二二日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報