英田保(読み)あがたほ

日本歴史地名大系 「英田保」の解説

英田保
あがたほ

現在の津幡つばた町北部から町南部一帯に比定され、英太・県とも記され、英田庄とも称された。「和名抄登載の加賀郡八郷のうち英多えた郷の名を継ぐものか。南北に分れ、北英田保(英田北保)は宇ノ気町気屋きや上山田かみやまだ・下山田・狩鹿野かるがの多田ただ指江さすえ付近、南英田保(英田南保)津幡領家りようけ能瀬のせ加茂かも舟橋ふなばし付近を占めたとみられる。地内には気屋けや保・萱野かるがの保・指江村などがあった。

「平戸記」仁治三年(一二四二)五月二八日条に「自梶井宮給御使、恵心院領英太保造白山社役事、所被仰也」とみえ梶井門跡尊覚法親王が、当保に対する白山宮造営課役の件で、使者を民部卿平経高の元に遣わした。正中二年(一三二五)一一月二五日の梶井門跡相承庄園御領目録(三千院文書)恵心えしん(現滋賀県大津市)領として英太南保・同北保、気屋保がみえ、梶井門跡相承寺院の一つである比叡山横川よかわ恵心院領で、尊雲法親王(護良親王)に譲られた。当時南保は同門跡、北保は法勝ほつしよう(跡地は現京都市左京区)常行堂などの経費に充てられていた。気屋保はのち北保に含まれるが、同門跡の経費に充てられているため別筆とされたのであろう。

北英田保は京都上賀茂社領金津かなつ庄と隣接しており、鎌倉期を通じて境界相論が続いた。正安二年(一三〇〇)三月二三日の関東下知状(賀茂別雷神社文書)によると、争点河北潟干潟を開作した田畠、当保北東部の名田屋敷大矢東おおやひがし山、塩海浜の帰属問題であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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