萱野村(読み)かやのむら

日本歴史地名大系 「萱野村」の解説

萱野村
かやのむら

[現在地名]中央町萱野

釈迦院しやかいん川と瀬戸せと山などの山岳地との間の平坦地に形成されている。東は小莚こむしろ村および上益城郡西寒野にしさまの(現甲佐町)、西は池田いけだ村・神園こうぞの村・原田はらだ村、南は小莚村、北は岩下いわした村。正平三年(一三四八)九月日の恵良惟澄軍忠状(阿蘇家文書)に「阿蘇豊後宰苻勢、相共乱入萱野村」とみえ、興国四年(一三四三)に阿蘇氏・大友氏らが当村に乱入したため、惟澄は終日合戦しこれを退けた。


萱野村
かやのむら

[現在地名]木更津市茅野かやの

小櫃おびつ川中流右岸、下郡しもごおり村の対岸に位置する。北の真理まり村から南下してきた久留里くるり道が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に茅野村とみえ、高八二五石。元禄郷帳には萱野村と記され、高七一六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数九一、久留里藩領。天保郷帳では高七八六石余、枝郷に七曲ななまがり村があった。寛文四年(一六六四)以降の領主の変遷は下内橋げないはし村に同じ。北部の字百目木どうめきに永正九年(一五一二)創建とされる羽雄はお神社があり、祭神は日本武尊。毎年一一月二六日から一二月五日までの一〇日間沐浴せず、談笑を禁じて武人を戸内に入らせないようにする三替(みかわり)習俗がある。


萱野村
かやのむら

[現在地名]千代田町萱野、館林市萱野

東は上中森かみなかもり村、西は赤岩あかいわ村・木崎きざき村、南は上五箇かみごか村・瀬戸井せどい村・赤岩村、北は野辺のべ(現館林市)木崎村。小泉こいずみ(現大泉町)の冨岡氏の所領を示す天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)に「館林領之内」として萱野がある。近世は初め館林藩領。寛永九年(一六三二)に村の一部を分離し、野辺村としたという(邑楽郡町村誌材料)。寛文郷帳に田方六五九石八斗余・畑方二六二石三斗余とあり、田方に「水損」と注記される。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)では高一千一一四石三斗余、田五二町九反余・畑五五町五反余である。


萱野村
かやのむら

[現在地名]美山町大字萱野

大野おおの一〇ヵ村の一。由良川上流左岸に位置する山間集落。川の上流(北東)沢田さわだ村、下流(西)の対岸は大野おおの村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より丹波篠山藩領となる。


萱野村
かやのむら

[現在地名]大網白里町萱野

平沢ひらさわ村の南西に位置する。古代の山辺やまべ草野かやの(和名抄)の遺称地とみられる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に茅野村とあり、高三九一石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では桂組に属し、幕府領四〇〇石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三七、旗本服部・川井領。慶応二年(一八六六)の捉飼場五郷連印帳(渡辺家文書)でも領主は同じ。


萱野村
かやのむら

[現在地名]海津町萱野

東小島ひがしおじま村の東に位置する。慶長郷帳にみえる高四八五石余の加屋の村が当村であると考えられる。元和二年(一六一六)の村高領知改帳には「かやの村」とみえ、徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳でも同藩領で、田四三八石余・畑一二三石余のうち新開分は七六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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