日本大百科全書(ニッポニカ) 「草莽諸隊」の意味・わかりやすい解説
草莽諸隊
そうもうしょたい
草莽とは自分を草むらにある者としながら危機打開のために奔走した志士をさすが、その多くは脱藩浪士と豪農商出身者であった。幕末から明治初年に幕府や藩とは相対的に独自な動きをした志士の隊を草莽諸隊という。志士たちが集団化して活動を始めるのは安政(あんせい)年間(1854~60)からであるが、1860年代の初めは、まだ桜田門外の変、坂下門外の変、イギリス公使館焼打ちなど、天誅(てんちゅう)=テロリズムに重きがあった。1863年(文久3)になると、長州の奇兵隊、大和(やまと)の天誅組、但馬(たじま)の生野(いくの)銀山挙兵組のように、挙兵に際して民衆まで動員する段階になり、それは翌年の長州における高杉晋作(しんさく)の奇兵隊など諸隊を率いた反乱以後、草莽諸隊は討幕の最前線で活動した。とくに戊辰(ぼしん)戦争期には、諸藩の指揮下に入ったものを含めると数十の諸隊名を数えることができる。北九州の花山院(かざんいん)隊、丹波(たんば)の山国(やまぐに)隊・弓箭(ゆみや)組、東山道(とうさんどう)の赤報(せきほう)隊・高松隊、東海道の遠州報国隊・駿州(すんしゅう)赤心隊・豆州伊吹(ずしゅういぶき)隊、越後(えちご)の居之(きょし)隊・北辰(ほくしん)隊・金革(きんかく)隊・正気(せいき)隊などが代表的なものであるが、別に諸藩の軍制に編成されたものがあり、また佐幕側にたつ関東の仁義(じんぎ)隊・振武(しんぶ)隊、甲陽鎮撫(こうようちんぶ)隊などの諸隊もあった。そのどれもがこの段階では尊王攘夷(そんのうじょうい)的発想をもち、その地方的な動きは「偽(にせ)官軍」や脱隊などの形をとって、新政府の武力の前にほとんど抵抗もなしに抑圧され、悲劇的な解隊を余儀なくされた例が多い。
[高木俊輔]