荻伏村(読み)おぎふしむら

日本歴史地名大系 「荻伏村」の解説

荻伏村
おぎふしむら

明治一五年(一八八二)から同三五年までの村。明治一五年二月、荻伏村と問民とうみん村が合併して成立。元浦もとうら川の下流西岸を占め、南は太平洋に面する。同年五月、赤心社第二回移民(兵庫・広島・愛媛・香川各県出身者)の四二戸・八三人が当村および野深のぶか村・姉茶あねちや村・後辺戸しりべと村にわたる元浦川流域に入植。当地から元浦川上流奥地へ向かって道路二〇町が延長された(荻伏百年史)。同一六年浦河村の浦河郡各村戸長役場から分離して前出四ヵ村を管下に置く荻伏村外三ヶ村戸長役場が当地に設置されたが、同一七年戸長役場事務は郡役所の直轄となった(浦河町史)。同年赤心社学校(教会堂と兼用)が設立され、同二一年には同社事務所(現赤心社記念館)が現在のJR荻伏駅前に建設された。同二四年には日蓮宗浜荻伏説教所、荻伏医院、浦河尋常小学校荻伏分校(同二六年荻伏尋常小学校に昇格)、金比羅神社がそれぞれ開設・建立されている。同二七年浦河警察署荻伏巡査駐在所が設置された(以上「荻伏百年史」)


荻伏村
おぎふしむら

明治三五年(一九〇二)から昭和三一年(一九五六)までの村。明治三五年四月に荻伏村・姉茶あねちや村・野深のぶか村・後辺戸しりべと村が合併し、二級町村制を施行して成立。旧村名を継承した四大字を編成。同時に当村・浦河町・西舎にしちや村・杵臼きねうす村からなる浦河町外三ヶ村組合役場を設置し、役場は浦河町に置いた。同年六月に実施された同組合役場の部制度では第八部大字後辺戸村、第九部大字荻伏村海岸一円、第一〇部大字荻伏村元浦河もとうらかわ一円、第一一部大字姉茶村川以西、第一二部大字姉茶村川以東、第一三部大字野深村となった(浦河町史)。同年荻伏郵便局が開局し(同四一年から電報取扱開始)、同三六年には姉茶尋常小学校が開校した。赤心社では同年に水田試作を行い、牧畜ではホルスタイン種を導入し、同四一年にはトロッター種の第三ボトカー号を三千二〇〇円で購入。


荻伏村
おぎふしむら

[現在地名]浦河郡浦河町荻伏町

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)までの村。浦河郡の南西部に位置し、西はポンニウシ川(伏海川)をもって三石みついし鳧舞けりまい(現三石町)に、北は問民とうみん村に、東は元浦もとうら川をもって開深ひらきぶか村に接し、南は太平洋に面する(「浦河町管内図」浦河町史、輯製二十万分一図、「状況報文」など)近世史料(「東蝦夷地場所大概書」、「戊午日誌」宇羅加和誌など)ヲニウシ、エカヌウシ(エカニウシ)、モトウラカワとみえる地などからなる。古くはウラカワ場所の会所(運上屋)があり、またミツイシ場所との境界の地でもあった。「日高国地誌提要」に荻伏村とある。明治元年田畑長助がオニウシ(浜荻伏)に入地したのが和人移住の始まりで、同二年原寅之助も移り、同四年には東松宇左衛門が元浦川に移住して渡舟宿を営み開墾を行った(荻伏百年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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