蒲牟田村
かまむたむら
広原村・麓村の南、東流する高崎川流域にある。霧島山の北東麓に広がり、南端に御池がある。麓村から南の西嶽村(現都城市)へ向かう道が通る。村内には霧島権現六社のうちの霧島東御在所両所権現社(現霧島東神社)と狭野大権現社(現狭野神社)、およびその別当寺神徳院・錫杖院などがあり、霧島東御在所両所権現社と錫杖院(東光坊)門前の家並は祓川、狭野大権現社と神徳院門前の家並は狭野(佐野)と称された(三州御治世要覧)。
「上井覚兼日記」天正二年(一五七四)一〇月一七日条によれば、「蒲牟田一町」は以前鎌田外記(政心)の地頭分であったが、外記が百次(現鹿児島県川内市)地頭職を与えられた際、蒲牟田一町は同名の鎌田勘解由に与えた。だが慮外の儀があって外記は勘解由を成敗した。しかし蒲牟田の地は勘解由の所領とされて別人に与えられたため、外記は同所を宛行われるよう島津氏に願出、老中はその配当を約束した。同四年八月の島津氏による高原城攻めの際、島津忠平(義弘)は当村西方花堂の地に陣を張ったという(「島津国史」など)。翌五年一二月の野尻城(現野尻町)攻めの際も島津軍は花堂に着陣(「長谷場越前自記」旧記雑録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 