蒲生賢秀(読み)がもう かたひで

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蒲生賢秀」の解説

蒲生賢秀 がもう-かたひで

1534-1584 戦国-織豊時代武将
天文(てんぶん)3年生まれ。蒲生定秀の子。近江(おうみ)(滋賀県)日野城主。六角義賢(よしかた)の臣だったが,永禄(えいろく)11年(1568)長男の氏郷(うじさと)とともに織田信長にしたがう。天正(てんしょう)10年本能寺の変では,安土城信長の家族を日野城にかくまった。天正12年4月17日死去。51歳。通称は左兵衛大夫。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の蒲生賢秀の言及

【蒲生氏】より

…平安~江戸初期の武家。鎮守府将軍藤原秀郷の次男千晴の子孫惟俊が陸奥国から上洛して平家に仕え,近江国蒲生郡を領して蒲生太郎と称したという。子俊賢は源頼朝に仕え,その後俊綱と子秀朝は足利尊氏に属して功があった。秀朝より7代目とされる貞秀とその子高郷は,近江守護佐々木六角氏に仕え,高郷の子定秀,孫賢秀は日野城主となった。賢秀は1568年(永禄11)六角氏が織田信長に滅ぼされたのち信長に属した。その子氏郷は信長・秀吉に仕え,歴戦の功により84年(天正12)伊勢松ヶ島12万石を与えられ(のち松坂に移る),90年会津黒川(若松)42万石(のち92万石)に封じられた。…

※「蒲生賢秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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