朝日日本歴史人物事典 「蒲生賢秀」の解説
蒲生賢秀
生年:天文3(1534)
戦国・安土桃山時代の武将。近江国日野城(滋賀県蒲生郡)城主蒲生定秀の嫡子。戦国大名六角義賢(承禎)の家臣で,義賢の子義弼が重臣を暗殺した観音寺騒動の際には調停役として活躍した。永禄11(1568)年の織田信長の近江進撃と六角家の凋落を境に信長にくみし,越前(福井県)朝倉攻めなどに出陣した。本能寺の変では,信長の妻女を日野城にかくまい,その後も明智光秀からの勧誘を断った。以後は豊臣秀吉にくみし,娘の儀光院(三条殿)は秀吉の側室となった。墓所は会津若松市の恵倫寺。<参考文献>『近江蒲生郡志』3巻
(宇野日出生)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報