アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のボストン・レッドソックス、トロント・ブルージェイズ、ニューヨーク・ヤンキースで投手としてプレー。史上最多の6回もサイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)を受賞した豪腕投手で「ザ・ロケット」の異名をとる。
8月4日、オハイオ州デイトンで生まれる。テキサス大から1983年、ドラフト1巡目(全体19番目)指名を受けてレッドソックスに入団。プロ2年目の1984年のシーズン途中に早くも大リーグ昇格を果たし、9勝4敗の好成績をあげた。1985年は故障で15試合の登板にとどまったが、86年は24勝、防御率2.48で二冠王となり、リーグ優勝に貢献してサイ・ヤング賞と最優秀選手(MVP)に選ばれた。この年、大リーグ新記録(現在はタイ記録)となる1試合奪三振20の快挙も達成した。1987年も20勝で最多勝となり、サイ・ヤング賞を受賞した。翌88年は奪三振王を獲得。1990年からは3年連続して最優秀防御率となり、91年は奪三振との二冠王で3回目のサイ・ヤング賞となった。1993年からは故障で3年続けて登板数が30を切ったが、2回目の1試合奪三振20をマークした1996年に奪三振王を獲得して復活。1997年にブルージェイズへ移籍、2年連続して投手三冠王となり、両年ともサイ・ヤング賞に選ばれた。1999年にヤンキースへ移籍。その年と2000年に2年続けて念願だったワールド・シリーズ優勝を経験した。2001年には無冠ながら、アメリカン・リーグタイ記録の16連勝をマークしてサイ・ヤング賞を受賞した。2003年には、通算300勝と奪三振4000を同じ試合で達成した。
[山下 健]
2003年にいったんは引退を表明したが撤回し、翌04年ヒューストン・アストロズと契約、33試合に登板して18勝をあげ、7回目のサイ・ヤング賞を受賞した。2005年には防御率1.87で最優秀防御率投手。2006年までアストロズでプレーしたのち、07年ふたたびヤンキースと契約、大リーグ史上8人目となる通算350勝を達成したが、年間18試合の登板でわずか6勝にとどまり、シーズン終了後に退団した。
2007年までの通算成績は、登板試合709、投球回4916と3分の2、354勝184敗、防御率3.12、奪三振4672、完投118、完封46。獲得したおもなタイトルは、最多勝利4回、最優秀防御率7回、最多奪三振5回、サイ・ヤング賞7回、MVP1回。
[編集部]
キリスト教史上最初の体系的神学者。おそらくアテネでギリシア系異教徒の子として生まれ、青年時に改宗。各地を遍歴後、あらゆる思想潮流のるつぼアレクサンドリアに至って、パンタイノスPantaenus(?―200ころ)に師事し、師の死後その教理学校を主宰した。3世紀初頭の迫害によりカッパドキアに退くが、晩年は不詳。アレクサンドリアのフィロンの神的ロゴス説(一なる神と多なる世界を結ぶ)や、アレゴリー的な聖書釈義法を摂取して、ヘブライ・キリスト教と古典ギリシアの両伝統の融合、調和を探り、当時の有力な異端であったグノーシス主義に対抗した。そして信と知gnōsisのかかわりを論証の構造としてとらえ直しつつ、ロゴス=キリストに真の知をみいだすその表現は、プラトン主義的キリスト教哲学の原型となった。否定神学の祖でもある。代表的著作に『ギリシア人への勧告』Protrepticus Sive Cohortatio ad Gentes、『教育者』Paedagogus、および大作『ストローマタ』(絨緞(じゅうたん)の意)Strōmateisの三部作がある。
[谷隆一郎 2015年1月20日]
『W・イェーガー著、野町啓訳『初期キリスト教とパイディア』(1964・筑摩書房)』▽『アダルベール・アマン著、家入敏光訳『教父たち』(1972・エンデルレ書店)』▽『J. QuastenPatrology (1975, Spectrum, Utrecht, Antwerp)』▽『B. AltanerPatrologie (1978, Herder, Freiburg, Basel, Wien)』
ローマ教皇(在位1523~1534)。元フィレンツェの大司教。ジュリオ・デ・メディチGiulio de' Mediciが本名。前教皇ハドリアヌス6世Hadrianus Ⅵ(在位1522~1523)が実現しえなかった教会刷新と教皇権の拡大に努めるが、宗教改革の嵐(あらし)のなかで、成果をあげることはできなかった。イギリス王ヘンリー8世の結婚問題に反対し、イギリス教会がローマから分離したのも彼の時代だった。さらにトルコの脅威を前にして、ヨーロッパの一致を説いた熱意も実を結ばなかった。歴史家ランケは、この教皇を教皇史上もっとも不運の教皇としている。
[磯見辰典 2017年11月17日]
『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史 第5巻』(1981・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』▽『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』
アビニョン教皇(在位1378~94)。グレゴリウス11世(在位1370~78)がローマに帰還してアビニョン教皇時代は終わったが、次に選出されたウルバヌス6世の選出をめぐって対立が起こり、これを無効とするフランス人枢機卿(すうききょう)を中心とする勢力は別に教皇を選んだ。この教皇がクレメンス7世である。ロベール・ド・ジュネーブRobert de Genèveを本名とするこの枢機卿はフランス王の甥(おい)にあたる。この教皇はふたたびアビニョンに教皇座を移し、ここに教会大分裂(シスマ)の時代(1378~1417)が始まった。
[磯見辰典]
『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』▽『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史4』(1981・講談社)』
最初のアビニョン教皇(在位1305~14)。フランス人。ベルトラン・ド・ゴBertrand de Gotが本名。もとボルドー司教。教皇に選出されたのちもフィリップ4世の圧力下にあってボニファティウス8世を批判、王の正当性を認め、1309年教皇座をローマからアビニョンに移し、さらにビエンヌ公会議(1311~12)において、テンプル騎士修道会の解散を宣言した。気の弱い自主性に欠けた人物として評されるが、教会機構、とくに司法制度の刷新に功績があった。
[磯見辰典]
『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』▽『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史4』(1981・講談社)』
「トウェーン」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ギリシア教父。アテナイの生れと伝えられる。若いころキリスト教に改宗し,師を求めて各地を遍歴。アレクサンドリアの教理学校学頭のパンタイノスPantainosに師事し,2世紀末にはパンタイノスのあとを継ぐ。弟子にオリゲネスがいた。202年ごろ迫害でアレクサンドリアを追われ,カッパドキアに逃れ,その地で没した。著述のうち《プロトレプティコス(勧告)》は,ギリシア人を対象に異教の誤りを指摘し,キリスト教への勧めを格調高く述べたもの。《教育者》はグノーシス派の誤謬とキリスト教徒の道徳を論じたもの。そのほか,草稿のまま終わった《ストロマタ(雑録)》がある。彼はギリシア的教養の価値を積極的に認めようとした教会人らしからぬ教父で,グノーシスをはじめ異端の説にもよく通じていた。また比喩的な聖書解釈はオリゲネスの先駆をなすものといってよい。
執筆者:森安 達也
ローマの第2あるいは第3代監督。96-97年ころローマからコリントスの教会にあてて書かれた《クレメンスの第1の手紙》の著者と考えられる。初代教会で広く認められていた伝承によれば,彼はペテロの直接の後継者で,ペテロにより監督に任命されたと言われている。この説は今日では認められないが,クレメンスに対する高い評価の一面を物語るものと言えよう。彼の名を付した文書が多く存することも,その当時の彼に対する一般の見方を示すと言えよう。彼自身も使徒の後継者であるとの自覚をもち,その著作においては文体,形式をパウロの手紙にならい,使徒的権威をもって教えている。
執筆者:川村 輝典
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150?~215?
キリスト教神学者。アレクサンドリア教校の校長となり,豊かなギリシア的教養にもとづいてキリスト教を異教世界に弁証,その学統をオリゲネスに伝えた。『ストロマテイス(雑録)』など,著作多数が現存。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…クリュニーの修道士から1080年ころ枢機卿となり,グレゴリウス7世のもとで教皇特使として教会改革および叙任権闘争に活躍。88年教皇となるが,皇帝ハインリヒ4世の推す対立教皇クレメンス3世Clemens IIIのために93年までローマに入ることができなかった。教会改革のため3回の教会会議(1095年ピアチェンツァ,クレルモン,1098年バリ)を開いたが,クレルモン会議では第1回の十字軍をも宣布した。…
…歴代のアビニョン教皇によって都市は整備され,教皇庁関連の諸施設が立地するにおよんで,一躍ヨーロッパ・キリスト教の枢要の地に成長した。それぞれベネディクトゥス12世およびクレメンス6世による,旧宮殿と新宮殿の建設によって,1.5haにおよぶ巨大な教皇庁舎が完成した。旧宮殿は簡素に,新宮殿は豪華に築かれたが,同時代にあっては,群を抜く大きさであった。…
…イギリスで発生すると,それはたちまち大陸に波及して,30年代にはとりわけフランスで勢力を拡張したが,その理神論的傾向はただちにカトリック教会の反発を買った。38年教皇クレメンス12世は,フリーメーソンに加入することを〈教会と正当なる国家権力に反する活動〉とみなして破門宣告の教書を発した。一方,プロテスタント牧師の入会者が少なくないところからして,プロテスタント側の評価はそれほど否定的ではない。…
…(2)180年ころ,パンタイノスによりアレクサンドリアに設立された一種の私塾(アレクサンドリア教校)に形成された学派。この教校はアレクサンドリアのクレメンス,オリゲネスへと継承され,新入信者へのキリスト教教理の問答による教授が行われた。その学風は聖書を比喩的に解釈し,〈旧約〉を〈新約〉の予型とみなすところに特色があり,聖書の文献学的研究を重視するアンティオキア学派に対する。…
… 古代東方神学はギリシア的なテオロギアの名称と思惟方法を取り入れてキリスト教を弁証しようとする2世紀のユスティノスらの弁証論者にはじまる。アレクサンドリアのクレメンスのあとをうけてこの方向で最初に体系的な神学を生み出したのは3世紀のオリゲネスである。その著《原理論》は教会的信仰を土台としつつ,解釈学的意図を明確にした聖書釈義を駆使して思弁的にも高度に展開された教義学である。…
…キリスト教徒の迫害についてはタキトゥスなどの史家も触れているので,われわれは初代教会の歴史をある程度は知っていると思いがちであるが,実際には,教義,典礼,教会組織に関する確実な史料はきわめて乏しい。1世紀末の使徒教父クレメンスがコリント教会にあてた《クレメンスの第1の手紙》を見ると,すでにローマの教会がコリント教会の内紛に対し使徒の権威を主張している点が注目される。 キリスト教は都市型の宗教で,都市を中心に教会を築いていった。…
…96‐97年ころ,ローマ教会の名でコリント教会にあてて書かれた手紙で,同教会内の混乱を収拾することが直接の目的であった。実際の著者はローマの第2あるいは第3代監督クレメンスといわれ,通常,偽書である第2の手紙と区別して《クレメンスの第1の手紙》と呼ばれる。本書の構成を見ると,最初から公の礼拝において朗読されるようにもくろまれたことがわかる。…
※「クレメンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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