クレメンス(読み)くれめんす(英語表記)William Roger Clemens

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クレメンス」の意味・わかりやすい解説

クレメンス(アメリカのプロ野球選手)
くれめんす
William Roger Clemens
(1962― )

アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のボストン・レッドソックス、トロント・ブルージェイズニューヨーク・ヤンキースで投手としてプレー。史上最多の6回もサイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)を受賞した豪腕投手で「ザ・ロケット」の異名をとる。

 8月4日、オハイオ州デイトンで生まれる。テキサス大から1983年、ドラフト1巡目(全体19番目)指名を受けてレッドソックスに入団。プロ2年目の1984年のシーズン途中に早くも大リーグ昇格を果たし、9勝4敗の好成績をあげた。1985年は故障で15試合の登板にとどまったが、86年は24勝、防御率2.48で二冠王となり、リーグ優勝に貢献してサイ・ヤング賞と最優秀選手(MVP)に選ばれた。この年、大リーグ新記録(現在はタイ記録)となる1試合奪三振20の快挙も達成した。1987年も20勝で最多勝となり、サイ・ヤング賞を受賞した。翌88年は奪三振王を獲得。1990年からは3年連続して最優秀防御率となり、91年は奪三振との二冠王で3回目のサイ・ヤング賞となった。1993年からは故障で3年続けて登板数が30を切ったが、2回目の1試合奪三振20をマークした1996年に奪三振王を獲得して復活。1997年にブルージェイズへ移籍、2年連続して投手三冠王となり、両年ともサイ・ヤング賞に選ばれた。1999年にヤンキースへ移籍。その年と2000年に2年続けて念願だったワールド・シリーズ優勝を経験した。2001年には無冠ながら、アメリカン・リーグタイ記録の16連勝をマークしてサイ・ヤング賞を受賞した。2003年には、通算300勝と奪三振4000を同じ試合で達成した。

[山下 健]

2004年以降

2003年にいったんは引退を表明したが撤回し、翌04年ヒューストン・アストロズと契約、33試合に登板して18勝をあげ、7回目のサイ・ヤング賞を受賞した。2005年には防御率1.87で最優秀防御率投手。2006年までアストロズでプレーしたのち、07年ふたたびヤンキースと契約、大リーグ史上8人目となる通算350勝を達成したが、年間18試合の登板でわずか6勝にとどまり、シーズン終了後に退団した。

 2007年までの通算成績は、登板試合709、投球回4916と3分の2、354勝184敗、防御率3.12、奪三振4672、完投118、完封46。獲得したおもなタイトルは、最多勝利4回、最優秀防御率7回、最多奪三振5回、サイ・ヤング賞7回、MVP1回。

[編集部]


クレメンス(アレクサンドリアのクレメンス)
くれめんす
Clemens Alexandrīnus, Titus Flavius
(150ころ―215以前)

キリスト教史上最初の体系的神学者。おそらくアテネでギリシア系異教徒の子として生まれ、青年時に改宗。各地を遍歴後、あらゆる思想潮流のるつぼアレクサンドリアに至って、パンタイノスPantaenus(?―200ころ)に師事し、師の死後その教理学校を主宰した。3世紀初頭の迫害によりカッパドキアに退くが、晩年は不詳。アレクサンドリアのフィロンの神的ロゴス説(一なる神と多なる世界を結ぶ)や、アレゴリー的な聖書釈義法を摂取して、ヘブライ・キリスト教と古典ギリシアの両伝統の融合、調和を探り、当時の有力な異端であったグノーシス主義に対抗した。そして信と知gnōsisのかかわりを論証の構造としてとらえ直しつつ、ロゴス=キリストに真の知をみいだすその表現は、プラトン主義的キリスト教哲学の原型となった。否定神学の祖でもある。代表的著作に『ギリシア人への勧告』Protrepticus Sive Cohortatio ad Gentes、『教育者』Paedagogus、および大作『ストローマタ』(絨緞(じゅうたん)の意)Strōmateisの三部作がある。

[谷隆一郎 2015年1月20日]

『W・イェーガー著、野町啓訳『初期キリスト教とパイディア』(1964・筑摩書房)』『アダルベール・アマン著、家入敏光訳『教父たち』(1972・エンデルレ書店)』『J. QuastenPatrology (1975, Spectrum, Utrecht, Antwerp)』『B. AltanerPatrologie (1978, Herder, Freiburg, Basel, Wien)』


クレメンス(7世)(ローマ教皇)
くれめんす
Clemens Ⅶ
(1478―1534)

ローマ教皇(在位1523~1534)。元フィレンツェの大司教。ジュリオ・デ・メディチGiulio de' Mediciが本名。前教皇ハドリアヌス6世Hadrianus Ⅵ(在位1522~1523)が実現しえなかった教会刷新と教皇権の拡大に努めるが、宗教改革の嵐(あらし)のなかで、成果をあげることはできなかった。イギリス王ヘンリー8世の結婚問題に反対し、イギリス教会がローマから分離したのも彼の時代だった。さらにトルコの脅威を前にして、ヨーロッパの一致を説いた熱意も実を結ばなかった。歴史家ランケは、この教皇を教皇史上もっとも不運の教皇としている。

[磯見辰典 2017年11月17日]

『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史 第5巻』(1981・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』


クレメンス(7世)(アビニョン教皇)
くれめんす
Clemens Ⅶ
(1342―1394)

アビニョン教皇(在位1378~94)。グレゴリウス11世(在位1370~78)がローマに帰還してアビニョン教皇時代は終わったが、次に選出されたウルバヌス6世の選出をめぐって対立が起こり、これを無効とするフランス人枢機卿(すうききょう)を中心とする勢力は別に教皇を選んだ。この教皇がクレメンス7世である。ロベール・ド・ジュネーブRobert de Genèveを本名とするこの枢機卿はフランス王の甥(おい)にあたる。この教皇はふたたびアビニョンに教皇座を移し、ここに教会大分裂(シスマ)の時代(1378~1417)が始まった。

[磯見辰典]

『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史4』(1981・講談社)』


クレメンス(5世)
くれめんす
Clemens V
(1264―1314)

最初のアビニョン教皇(在位1305~14)。フランス人。ベルトラン・ド・ゴBertrand de Gotが本名。もとボルドー司教。教皇に選出されたのちもフィリップ4世の圧力下にあってボニファティウス8世を批判、王の正当性を認め、1309年教皇座をローマからアビニョンに移し、さらにビエンヌ公会議(1311~12)において、テンプル騎士修道会の解散を宣言した。気の弱い自主性に欠けた人物として評されるが、教会機構、とくに司法制度の刷新に功績があった。

[磯見辰典]

『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史4』(1981・講談社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クレメンス」の意味・わかりやすい解説

クレメンス[アレクサンドリア]
Clemens Alexandrinus

[生]150頃.アテネ
[没]215頃.パレスチナ
アレクサンドリア派のキリスト教神学者。本名 Titus Flavius Clemens。両親は異教徒。各地でキリスト教と哲学を修学後,175年アレクサンドリアへ行きパンタイノスに師事。アレクサンドリア教校の校長になった。202年皇帝セプチミウス・セベルスの迫害を受け,小アジアのカッパドキアへ赴いた。2世紀のアレクサンドリアはグノーシス派が栄え,正統と異端の境界が不分明であったが,クレメンスはこれの明確化に寄与。信仰と理性および哲学との調停を可能と見,グノーシス派とみずからを峻別しつつ,なお真の英知(グノーシス)を追求するという立場をとった。ギリシア文化と哲学を高く評価し,これを神からキリスト教の前段階として与えられたたまものとみなした。古代哲学とキリスト教との最初の総合者で,その系譜は弟子オリゲネスから,4世紀のギリシア教父およびアウグスチヌスにまで連なる。主著『ギリシア人への勧告』Protreptikos(190頃)は異教の神の不合理をつき,改宗を勧め,『教師』Paidagōgos(190~195頃)は信徒の日常をよき生活へ教導した。『雑録』Strōmateis(8巻,200~202頃)は哲学的見解の非体系的ノートで,『富者の救い』Tis ho sōzomenos plousiosでは富の正しい使い方を示し,救いにあずからしめた。

クレメンス
Clemens, Flavius

[生]?
[没]96
古代ローマの政治家。ウェスパシアヌス帝の血縁。妻はドミチアヌス帝の姪。 95年執政官 (コンスル ) 。ドミチアヌスによって妻とともに無神論のゆえに処刑された。ユダヤ教またはキリスト教を信じていたためといわれるが,実際はその財産がねらわれたらしい。

クレメンス

トウェーン」のページをご覧ください。

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