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六角義賢 ろっかくよしかた

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

六角義賢
ろっかくよしかた

[生]大永1(1521)
[没]慶長3(1598).3.12.
戦国大名。定頼の子。右京大夫。通称,四郎。法名,承禎。天文 21 (1552) 年1月家督を継ぎ,近江観音寺城主となり近江南部に勢力をふるった。足利義輝を助けて三好長慶と戦ったが,永禄1 (58) 年 11月義輝と長慶との和議を斡旋。

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デジタル大辞泉の解説

ろっかく‐よしかた〔ロクカク‐〕【六角義賢】

[1521~1598]戦国時代の武将。近江(おうみ)観音寺城主。法名、承禎。足利義輝を擁立したため、義昭と結んだ織田信長に攻められて城を追われた。のち、三好・浅井氏と結んで信長と戦ったが敗れて降伏。

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百科事典マイペディアの解説

六角義賢【ろっかくよしかた】

戦国末期の南近江の大名。定頼の子。1540年の伊勢出陣以来,つねに姉婿細川晴元の与党として行動した。1552年家督を相続。1557年剃髪して承禎と号し,家督を義弼(よしすけ)(義治)に譲った。
→関連項目観音寺城

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

六角義賢 ろっかく-よしかた

1521-1598 戦国時代の武将。
大永(たいえい)元年生まれ。六角定頼(さだより)の長男。足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる)らを擁して三好長慶(みよし-ながよし)らとたたかう。天文(てんぶん)21年家督をつぐ。弘治(こうじ)3年長男義治(よしはる)に家督をゆずり,剃髪して抜関斎承禎(ばつかんさい-じょうてい)と号したが,同家の実権をひきつづきにぎり,永禄(えいろく)10年六角氏式目を制定。11年織田信長の京進出を阻止しようとして敗北,六角氏滅亡をまねいた。慶長3年3月14日死去。78歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

六角義賢

没年:慶長3.3.14(1598.4.19)
生年:大永1(1521)
戦国時代の大名。近江国(滋賀県)守護六角定頼の嫡子。法名承禎。剃髪し家督を子義弼(義治)に譲ったのちも,事実上当主として権勢を振るう。将軍足利義晴・義輝を庇護して三好長慶らと戦い,近江では江北の戦国大名浅井氏と戦闘を繰り返すなど,戦国武将として勇猛果敢であったが,子義弼の失態から同家の基盤は崩れていった。義弼は,歴代六角家の重臣として活躍した後藤賢豊とその子を思慮もなく暗殺したのであった。この事件は世に観音寺騒動と呼ばれ,以後,六角家家臣たちの忠誠心は急速に薄れていった。永禄11(1568)年,上洛を目指す織田信長の近江進撃に際して,承禎父子は徹底抗戦を試みるがついに力尽き,居城観音寺城から将兵を残したまま夜陰に紛れ甲賀へと逃亡した。これにより名家六角家は凋落の一途をたどり,再起をかけた得意のゲリラ戦もむなしく,父子別々に流浪生活を送ったすえ,承禎は宇治田原(京都府綴喜郡)で失意落胆のまま生涯を終えた。<参考文献>『近江蒲生郡志』2巻

(宇野日出生)

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世界大百科事典 第2版の解説

ろっかくよしかた【六角義賢】

1521‐98(大永1‐慶長3)
南近江の戦国大名。六角定頼の嫡男。1539年(天文8)能登守護畠山氏の娘と婚姻,同年上洛し,従五位下左京大夫となる。はやくより父と行動し,40年伊勢へ出陣,46年には足利義藤(義輝)の元服に列席した。その後義藤を助け,再三京に出兵し,幕府政局に関与した。52年父の死により家督をつぐ。57年(弘治3)には養女を本願寺顕如に入れ,伊勢に出兵し,また日置流弓術を伝授された。同年末に定頼の七周忌を行い,剃髪して承禎と称し,家督を長男義弼(義治)に譲った。

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大辞林 第三版の解説

ろっかくよしかた【六角義賢】

1521~1598) 戦国時代の武将。法名は承禎。近江観音寺城に拠って、将軍足利義晴・義輝を支援、三好長慶に抗した。のち、将軍義昭を擁して上洛する織田信長と敵対、1570年降伏。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

六角義賢
ろっかくよしかた
(1521―1598)

南近江(みなみおうみ)の戦国大名。六角定頼(さだより)(佐々木定頼)の子。佐々木義賢ともいう。蒲生(がもう)郡観音寺(かんのんじ)城を居城とした。父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)および義輝(よしてる)を奉じて、京都や近国で三好(みよし)氏や長野氏と戦い、戦国期の政争に関与した。1552年(天文21)に父の死により家督を継いだ。1558年(永禄1)足利義輝を奉じて、京都白河で三好長慶(ながよし)と戦い、和議が成立して、義輝を二条城に入れることに成功した。家督を子の義弼(よしすけ)(のち義治(よしはる))に譲り、剃髪(ていはつ)して抜関斎承禎(ばっかんさいじょうてい)と称した。その後も実権を握り、京都に再三出兵したが、63年(永禄6)の重臣後藤但馬守(たじまのかみ)父子を殺害した観音寺騒動により、家臣団への統制力は弱まった。また、北近江の浅井氏の勢力が増しており、68年には、足利義昭(よしあき)を奉じて上洛(じょうらく)する織田信長の前に城を去り、甲賀(こうが)山中に退き、以後勢力を回復できなかった。なお、67年に義治とともに「六角氏式目」を制定したが、これは戦国家法として、内容、形式ともに注目すべきものである。慶長(けいちょう)3年3月14日没。法号梅心院弥天藤阿。[宮島敬一]

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世界大百科事典内の六角義賢の言及

【浅井長政】より

…久政の子。はじめ六角義賢(承禎)の偏諱(へんき)を得て新九郎賢政と称し,1560年(永禄3)家督を継いだ。翌年,賢政を捨てて備前守長政と改名。…

【六角氏式目】より

…近江国南半を領した大名六角氏が1567年(永禄10)4月に制定した67ヵ条よりなる分国法。〈義治(よしはる)式目〉とも呼ばれるが,原題は〈置目〉であり,諸伝本には六角義治の署判のものだけでなく,義治とその父六角承禎(じようてい)(六角義賢)の連署のものがあり,当時の実情からいって後者が原形を正しく伝えているので,この名称はふさわしくない。この分国法は1563年の観音寺騒動という内乱,つづいて66年の浅井長政との戦いにおける惨敗という六角氏危急存亡のときに,領国の支配体制再建を目的として制定された。…

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