南近江(みなみおうみ)の戦国大名。六角定頼(さだより)(佐々木定頼)の子。佐々木義賢ともいう。蒲生(がもう)郡観音寺(かんのんじ)城を居城とした。父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)および義輝(よしてる)を奉じて、京都や近国で三好(みよし)氏や長野氏と戦い、戦国期の政争に関与した。1552年(天文21)に父の死により家督を継いだ。1558年(永禄1)足利義輝を奉じて、京都白河で三好長慶(ながよし)と戦い、和議が成立して、義輝を二条城に入れることに成功した。家督を子の義弼(よしすけ)(のち義治(よしはる))に譲り、剃髪(ていはつ)して抜関斎承禎(ばっかんさいじょうてい)と称した。その後も実権を握り、京都に再三出兵したが、63年(永禄6)の重臣後藤但馬守(たじまのかみ)父子を殺害した観音寺騒動により、家臣団への統制力は弱まった。また、北近江の浅井氏の勢力が増しており、68年には、足利義昭(よしあき)を奉じて上洛(じょうらく)する織田信長の前に城を去り、甲賀(こうが)山中に退き、以後勢力を回復できなかった。なお、67年に義治とともに「六角氏式目」を制定したが、これは戦国家法として、内容、形式ともに注目すべきものである。慶長(けいちょう)3年3月14日没。法号梅心院弥天藤阿。
[宮島敬一]
南近江の戦国大名。六角定頼の嫡男。1539年(天文8)能登守護畠山氏の娘と婚姻,同年上洛し,従五位下・左京大夫となる。はやくより父と行動し,40年伊勢へ出陣,46年には足利義藤(義輝)の元服に列席した。その後義藤を助け,再三京に出兵し,幕府政局に関与した。52年父の死により家督をつぐ。57年(弘治3)には養女を本願寺顕如に入れ,伊勢に出兵し,また日置流弓術を伝授された。同年末に定頼の七周忌を行い,剃髪して承禎と称し,家督を長男義弼(義治)に譲った。しかしその後も実権を握り,58年(永禄1)京に出兵,62年には京で徳政令を出している。翌年の観音寺騒動で家臣が離反し,67年制定の家法《六角氏式目》では権限を大きく制約された。北近江の浅井氏にも圧倒され,68年織田信長の入京のまえに観音寺城をすて,その後勢力を回復できなかった。
執筆者:宮島 敬一
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(宇野日出生)
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…久政の子。はじめ六角義賢(承禎)の偏諱(へんき)を得て新九郎賢政と称し,1560年(永禄3)家督を継いだ。翌年,賢政を捨てて備前守長政と改名。…
…近江国南半を領した大名六角氏が1567年(永禄10)4月に制定した67ヵ条よりなる分国法。〈義治(よしはる)式目〉とも呼ばれるが,原題は〈置目〉であり,諸伝本には六角義治の署判のものだけでなく,義治とその父六角承禎(じようてい)(六角義賢)の連署のものがあり,当時の実情からいって後者が原形を正しく伝えているので,この名称はふさわしくない。この分国法は1563年の観音寺騒動という内乱,つづいて66年の浅井長政との戦いにおける惨敗という六角氏危急存亡のときに,領国の支配体制再建を目的として制定された。…
※「六角義賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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