薗村
そのむら
[現在地名]真備町有井・市場・辻田・岡田
小田川の左岸、西は八田村と接し、南部を山陽道が抜ける。竜王塚古墳や天神山古墳・同古墳群などがある。「和名抄」下道郡曾能郷に比定され、中世には園庄(東・西)が成立する。有井は天正四年(一五七六)三月二九日の毛利輝元宛行状(黄薇古簡集)で「薗庄之内有井本所拾八貫文之地」が池田管助に与えられている。慶長一二年(一六〇七)の現西薗神社への千石定盛の寄進状(白神文書)には「にしその」とある。
薗村
そのむら
[現在地名]館山市薗
二子村の北に位置し、村域は滝川支流竹原川の中流左岸に広がる。園とも記した。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高四一八石余(うち田二三〇石余)、同一五年の里見家分限帳では廿人衆の本間八郎と百人衆頭の忍足兵蔵の給知。正保郷帳では高三一五石余(うち田一七四石余)で北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では旗本三浦領。宝暦一二年(一七六二)には幕府領(国分区有文書)。天保村高帳では旗本本多領。天保一四年(一八四三)の忍藩領郷村高帳に村名が載り、房陽郡郷考でも武蔵忍藩領で、家数四八。
薗村
そのむら
宮川の右岸、宮川と支流薗川の合流する地点にある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「薗村」と記される。元禄郷帳は薗村枝郷として古和瀬新田を記す。開発の史料として元禄一四年(一七〇一)新田畑検地帳・宝永四年(一七〇七)新畑亥改検地帳(同蔵)が伝わる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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