宮川村(読み)みやがわむら

日本歴史地名大系 「宮川村」の解説

宮川村
みやがわむら

[現在地名]光町宮川

上原かんばら村の北西に位置し、西は南流する栗山くりやま川を境に上総国武射むしや郡栗山村(現横芝町)、北は時曾根ときそね(現八日市場市)など。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳に載る宝持ほうじ院の所在地として宮川とみえ、慶安二年(一六四九)の古書物之写(越川家文書)には「宮川字小屋郷」とある。寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、同八年の鷹場五郷組合帳では宮川組に属し、佐倉藩領八三石、旗本内藤領四七〇石・伊藤領二三〇石の三給。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一千一四八石余、旗本内藤・伊藤・荒木領の相給。

宮川村
みやがわむら

面積:一九六・九〇平方キロ

飛騨山地最北端に位置し、四方を山に囲まれ、北は富山県婦負ねい八尾やつお町・同郡細入ほそいり村、東は神岡かみおか町、南は古川ふるかわ町、西は河合かわい村に接する。江戸時代、現河合村の上山中かみさんちゆうに対し、現宮川村を下山中とよんだ。中央部を宮川が深い渓谷を作り、蛇行しながら北流し、集落はこの渓谷の谷間に散在する。国道三六〇号(旧越中西街道)が上流坂上さかがみ地区では右岸を、坂下地区では左岸を走り、JR高山本線もほぼこれに沿う。近世は宮川右岸は小島こじま郷、左岸は小鷹利こたかり郷に属した。中世以来紙漉が盛んで、高山藩も檜の張板や紙漉槽を与えて紙漉を奨励したと伝え、今も保存する家がある。

宮川村
みやがわむら

[現在地名]柏崎市宮川・大湊おおみなと

東は長嶺ながみね(現刈羽郡西山町)、南は寺尾てらお(現同郡刈羽村)、西は日本海で海辺に沿って北東は椎谷しいや町、南西も荒浜あらはま村へ境を接する。北陸道の柏崎宿から椎谷宿の間にあった宿場であり、日本海に面した漁村。応永一六年(一四〇九)三月晦日の覚園寺評定衆連署寄進状(覚園寺文書)によると、鎌倉覚園かくおん寺の開山塔泉龍せんりゆう院の料所として「越後宮河自在寺」など四ヵ所が覚園寺住持らにより寄進されており、当地に覚園寺領が存在した。文禄三年(一五九四)二月二一日の泉沢久秀黒印状(穴沢吉太郎氏蔵)によると、上杉景勝の重臣泉沢久秀より発智新左衛門へ「苅羽郡之内、宮川之入に、女介四人けんたいニ拾五石之地」が与えられている。

宮川村
みやがわむら

[現在地名]静岡市宮川

有度山うどさん丘陵西麓に位置し、西縁を大谷おおや川が南流する。南は大谷村。大谷村から分村したとの説があり(「駿河記」など)、同村・片山かたやま村とともに大谷三ヶ村と称された。元和六年(一六二〇)久能山東照宮領となる経緯は大谷村と同じ。寛文一一年(一六七一)の検地名寄帳(山田家文書)によれば高二一八石余、反別は田方一五町三反余・畑方三町五反余・屋敷四反余。元禄郷帳でも高二一八石余。国立史料館本元禄郷帳では東照宮領。以後変化なく幕末に至る。

宮川村
みやがわむら

[現在地名]長浜市宮司町みやしちよう

南田附みなみたづけ村の南にあり、西は下司げし村に続く。寛永石高帳に高五六三石余とあるが、領主は不明。正保郷帳は同高で幕府領とある。元禄一一年(一六九八)より宮川藩領。天明村高帳に高五八二石余とある。元禄一一年上野国吉井よしい(現群馬県多野郡吉井町)より堀田正休が一万石で入部。この地に邸宅を築き宮川陣屋と称した。その封地は近江国甲賀郡・坂田郡・蒲生がもう郡・愛知えち郡のうちであった。堀田氏は名門で、正休の祖父正盛は老中となり、下総佐倉藩一二万石を領し、三代将軍徳川家光に殉死、その子正信は万治三年(一六六〇)老中松平信綱の専横に憤慨して上書、無断帰藩して所領没収、天和二年(一六八二)正休に吉井で一万石を与えられていた。

宮川村
みやがわむら

面積:三〇六・〇一平方キロ

三重県の中央、多気郡の最南西にある。東西三〇・五キロ、南北三一・一キロの村域は、周囲を一〇〇〇メートル級の山々に囲まれて、その九割以上が山林である。東は大台おおだい町に接し、北は飯南いいなん郡飯南町・飯高いいたか町に続き、南部は北牟婁きたむろ紀伊長島きいながしま町・海山みやま町、度会わたらい大内山おおうちやま村・紀勢きせい町へと続いている。西は、一六九五メートルの日の出ひので岳をはじめとする台高だいこう山脈をもって奈良県吉野よしの川上かわかみ村・上北山かみきたやま村に接している。大台おおだいはら山系を水源とする宮川は、多くの支流・小渓流を合せつつ当村の中央を東へ流れ峡谷を形づくっている。

宮川村
みやがわむら

[現在地名]蒲生町宮川

蒲生堂がもうどう村のほぼ西に位置する。村域は南北に長く、南半は丘陵地となり、西は山之上やまのうえ(現竜王町)。中世には京都祇園社領宮川保として推移した。永正年間(一五〇四―二一)には岡氏が当地に城を構えたと伝える。寛永石高帳では高五八二石余、幕府領。慶安二年書上によると田四二九石余・畑屋敷二三石余、永荒川成一二八石余。

宮川村
みやがわむら

[現在地名]亀岡市宮前みやざき町宮川

猪倉いのくら村の北西にあり、北西は船井郡の中野なかの村。北東と南西は山が狭まり、その間の本梅ほんめ谷の村域を本梅川が北流、篠山街道(山陰道)が南東から北西に通る。また当村から山間の道を東にとれば神前こうざき村を経て北庄きたのしよう村へ至る。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高七六八・三六石、戸数一二〇、亀山藩領。農作は五穀を主とした。また猪倉・神前両村とともに砥石を生産し現在まで続いている。

集落西方の神尾かんのお山頂に神尾山城跡がある。大永六年(一五二六)秋、細川高国の重臣細川尹賢が、丹波の土豪波多野稙通の弟香西元盛を殺したことに端を発した反高国の反乱の時、稙通の義弟柳本賢治が当城に立て籠って稙通に呼応した。

宮川村
みやがわむら

[現在地名]清水町宮川

三田みた村の東北、有田川の支流宮川谷みやがわだに川筋の山間部に位置する。村は上番かみばん下番しもばん柳番やなぎばんの三つに分れる(続風土記)

慶長検地高目録には「下宮川村」とみえ、村高一一七石余、小物成九斗六升六合。享保二〇年(一七三五)の宮川村御毛見町積差出帳(堀江家文書)では家数四二で内訳は庄屋一・肝煎二・本役一九・半役七・無役一三、人数一二五(男八四・女四一)、牛一四で、「作間稼無御座候」とある。寛政一一年(一七九九)の宮川村持高当作高并人別御調ニ付書上帳(同文書)によれば家数三二(うち無高四・無住一)、人数一五一、牛二二。日雇稼四人、日々稼五人、作奉公二人がいた。

宮川村
みやかわむら

[現在地名]中里町宮川

北東は中里川を隔てて尾別おつぺつ村、東北東は中里村、西は宮野沢みやのさわ川・鳥谷とりや川を隔てて長泥ながどろ村に接する。

金木新田一八ヵ村の一つで、享保一二年(一七二七)の村位は下で免は四ツ成であった(平山日記)。元文二年(一七三七)の検地帳によると、田方五〇町二二歩、畑方二町七反五畝二四歩、田畑屋敷合せて五二町七反六畝一六歩、村高二六九・三三石。上田一町二反八畝一九歩のほかは下々田である。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、寛政一〇年(一七九八)に二九四・一石、文化九年(一八一二)に八三・四石の新田高が書上げられている。

宮川村
みやがわむら

[現在地名]三浦市晴海はるみ町・宮川町・岬陽こうよう

北ははら村、東は毘沙門びしやもん村・原村、西はむこうさき村、南は宮川湾などの海に面している。村名は正保国絵図にはなく、元禄郷帳にみえる。文化二年(一八〇五)の助郷人馬割宛済口証文(県史九)によれば、鎌倉郡雪下ゆきのした(現鎌倉市)への助郷役を課されていた。同七年の鮪鰹漁争論一件裁許請書(同書)によれば、三崎みさき町など六ヵ村から訴えられた一二ヵ村中に宮川村の名がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報