朝日日本歴史人物事典 「藤原信隆」の解説
藤原信隆
生年:大治1(1126)
平安後期の公卿。正三位。後白河院の近臣で,七条坊門に住み七条修理大夫と号す。右京大夫信輔と伯耆守橘家光の娘との子。応保1(1161)年9月,平頼盛と平時忠が憲仁親王(高倉天皇)の東宮擁立を画策した事件に連座して右馬頭,因幡守を解官された。仁安1(1166)年許され,右馬頭に還任。その後,伊予守,大宰大弐,修理大夫など得分の大きい官職を歴任。治承3(1179)年2月,娘殖子(七条院)が高倉天皇の皇子守貞(後高倉上皇)を生んだが,同年11月に死去。のちに殖子所生の第4皇子尊成(後鳥羽天皇)が即位すると,天皇の外祖父に当たることにより,左大臣従一位を追贈された。
(秋山喜代子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報