(読み)キン(英語表記)gold

翻訳|gold

デジタル大辞泉 「金」の意味・読み・例文・類語

きん【金】[漢字項目]

[音]キン(漢) コン(呉) [訓]かね かな こがね
学習漢字]1年
〈キン〉
金属の総称。「金石金文合金鋳金彫金板金冶金やきん
金属元素の一。きん。こがね。「金貨金塊金銀金鉱金箔きんぱく金粉砂金純金鍍金ときん白金
お金。貨幣。「金員金額金子きんす金銭金融金利金満家換金給金献金現金残金資金借金賞金税金千金送金大金代金貯金罰金募金料金義捐金ぎえんきん
こがね色。「金波金髪
美しい、りっぱな、かたいものなどを形容する語。「金言金科玉条金枝玉葉金城鉄壁
〈コン〉12および45に同じ。「金剛金色こんじき金泥金銅金堂黄金おうごん
〈かね(がね)〉「金目板金裏金帯金小金地金筋金針金
〈かな〉「金網金具金棒金輪
[名のり]か
[難読]金雀児エニシダ金糸雀カナリア金海鼠きんこ金団きんとん鍍金めっき滅金めっき

かね【金】

金属の総称。特に、金・銀・鉄・銅など。
貨幣。金銭。おかね。「に困る」「がかかる」「裏でが動く」「がたまる」
[下接語]唐金切り金銭金(がね)遊び金粗金有り金生き金板金打ち金腕金裏金大金帯金下ろし金隠し金掛け金からす切りがね腐れ金口金小金座金差し金地金下金死に金締め金筋金捨て金包み金つぼ胴金じ金留め金にせ延べ金はしはした針金火打ち金日金引き金ひじ日済ひなし金臍繰へそくり金真金見せ金耳金無駄金目腐れ金・持ち金・焼き金渡し金
[類語](1金属軽金属重金属貴金属卑金属非金属合金金箔ホイルメタル/(2金銭貨幣通貨おあし外貨硬貨金貨銀貨マネーコイン

きん【金】

[名]
銅族元素の一。単体は黄金色で光沢がある。金属中最も展延性に富み、厚さ0.1マイクロメートルはくにすることが可能。化学的に安定で、酸化されにくくびず、また、王水には溶けるが、普通の酸やアルカリにはおかされない。自然金の形で主に石英鉱脈中から産出し、母岩が風化したあと川に沈積した砂金としても得られる。貴金属として貨幣・装飾品や歯科医療材料などに使用。比重19.3。記号Au 原子番号79。原子量197.0。こがね。黄金おうごん
値打ちのあるもののたとえ。「の卵」「沈黙は

㋐金貨。また、金銭。「一封」「手切れ
㋑金額を記すときに、上に付けて用いる語。「五万円」
きんいろ。こがねいろ。「ラメのスカーフ」
将棋の駒で、金将
金メダル。「日本選手が・銀・銅を独占する」
睾丸こうがんのこと。きんたま。
金曜日
五行の第四位。方位では西、季節では秋、五星では金星、十干ではかのえかのとに配する。
[接尾]数を示す語に付いて、金の純度を表すのに用いる。24金が純金。カラット。「18のペン先」
[類語]黄金おうごん黄金こがね金銀純金十八金金塊砂金金粉ゴールド

きん【金】

女真じょしん族完顔部の首長阿骨打アクダが1115年に建てた国。りょうを滅ぼし、を南方に追って、中国東北地区・蒙古もうこ・華北を征服。都は会寧、後に燕京、汴京べんけい。1234年、モンゴルに滅ぼされた。

こん【金】

きん(金)9

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「金」の意味・読み・例文・類語

きん【金】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 古来、五金(金・銀・銅・鉄・錫)の長として尊重されてきた、美しい黄色の光沢がある金属元素の一つ。文武天皇大宝元年(七〇一)に対馬国から朝貢されたのが歴史に見える古例である。塊状では美しい黄色の金属光沢、粉末状では紫、コロイド状では赤、溶融状態では緑、箔状では緑から青に見える。主として、石英鉱脈中の自然金、または川の砂中の砂金など単体として産出する。工業的には、比重選鉱法、青化法などで精錬して得られる。化学的にきわめて安定で、王水にとけて塩化金酸に、また水銀と化合してアマルガムとなるが空気、水、酸素、硫黄などとは反応せず、普通の酸やアルカリにおかされないうえ、重く軟かで延性、展性に富むので種々の細工に適し、貴金属の中でも特に珍重され、貨幣、装飾品として用いられている。化学記号 Au 原子番号七九。原子量一九六・九六七。比重一九・三。おうごん。こがね。きがね。くがね。〔十巻本和名抄(934頃)〕〔書経‐舜典〕
    2. 石に対して、金、銀、銅、鉄、錫などの鉱物の総称。金属。かね。〔易経‐繋辞上〕
    3. ( 金を貨幣の材料として用いたところから ) 金貨、また貨幣。
      1. (イ) 大判、小判、一歩金(いちぶきん)などの金貨の総称。
        1. [初出の実例]「脇指買之。代二貫三百卅文、金二両〈一朱たらす〉、十一貫つつ通也」(出典:多聞院日記‐永祿一〇年(1567)五月六日)
      2. (ロ) 貨幣。金銭。かね。現在は、「金━(円)」などの形で、金額の上につけて用いることが多い。
        1. [初出の実例]「其の金(キン)を以て娘を連れて帰りたく候へば、金子(きんす)を我に渡され候へと」(出典:浮世草子・鬼一法眼虎の巻(1733)二)
        2. 「金(キン)五円至急に調達せよ」(出典:酒中日記(1902)〈国木田独歩〉五月六日)
        3. [その他の文献]〔戦国策‐秦策・恵文君〕
    4. きんしょう(金将)」の略。〔日葡辞書(1603‐04)〕
    5. きんし(金糸)」の略。
      1. [初出の実例]「三つ重ねたる小袖、皆くろはぶたへに裙取の紅うら、金のかくし紋」(出典:浮世草子・好色五人女(1686)三)
    6. きんぱく(金箔)」の略。
      1. [初出の実例]「袋はかうしの金らん、金はげて難見、古き也」(出典:松屋会記‐久政茶会記・天正一四年(1586)九月二八日)
    7. きんいろ(金色)」の略。
      1. [初出の実例]「上下衣装にて高股立、大きなる金の幣束(へいそく)をかつぎ出て来り」(出典:歌舞伎・名歌徳三舛玉垣(1801)三立)
      2. [その他の文献]〔詩経‐小雅・車攻〕
    8. 睾丸(こうがん)。きんたま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
      1. [初出の実例]「馬鹿な事娘にきんをけられ損」(出典:雑俳・柳多留‐一三(1778))
    9. 五行の第四。時節では秋、方位では西、五音(ごいん)では商、十干では庚辛、天体の五星では金星にあたる。
      1. [初出の実例]「吹金風冷簸、滴玉露清瑩」(出典:菅家文草(900頃)一・重陽侍宴、賦景美秋稼)
      2. [その他の文献]〔漢書‐五行志上〕
    10. きんよう(金曜)」の略。
    11. きんよう(金曜)」の略。
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 女真族が満洲、華北に建てた王朝。完顔部の阿骨打が女真族を統一し、一一一五年遼から独立して建国。のち、遼を滅ぼし、宋を南に追って華北に中国的な中央集権の専制政治を行なった。首都は初め会寧府、のち燕京、汴京。一〇代一二〇年でモンゴル帝国に滅ぼされる。
    2. [ 二 ]こうきん(後金)
  3. [ 3 ] 〘 接尾語 〙 金の純度を示す単位。二十四金が純金。「十八金の時計」

かね【金・鉄・銀・銅】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 金属(金・銀・銅・鉄など)の総称。また、その原料の鉱石、鉱物。
    1. [初出の実例]「この籠はかねを造りて色どりたる籠なりけり」(出典:源氏物語(1001‐14頃)浮舟)
    2. 「鉄は、堅く且強くして、甚だ要用のかねなり」(出典:尋常小学読本(1887)〈文部省〉五)
  3. 貨幣。金銭。金子(きんす)。おかね。
    1. [初出の実例]「もしかね給はぬ物ならば彼の衣のしち返したべ」(出典:竹取物語(9C末‐10C初))
  4. かねじゃく(曲尺)
    1. [初出の実例]「定瑜記云、短冊ノ寸法ノ事、先ツ一問ハ金ノ一尺也」(出典:醍醐寺新要録(1620))
  5. でできたもの。金物。金具。
    1. [初出の実例]「障子(さうじ)はあなたよりさすべき方なかりければ〈略〉こなたよりこそ、さすかねなどもあれ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)夕霧)
  6. かねしょう(金性)」の略。
  7. 金箔(きんぱく)

かな【金】

  1. 〘 造語要素 〙 ( 「かね(金)」の変化したもの )
  2. 金属、鉄の意味を示す。「かなあみ」「かなづち」「かなぼう」など。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  3. 金銭の意味を示す。「かなぐら」「かなぐり」など。
  4. 金属、鉄などのように堅固なさまの意味を示す。「かなこぶし」「かなずね」など。
  5. 全くの、の意味を示す。「かなげこ」「かなつんぼ」など。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金」の意味・わかりやすい解説

金(元素)
きん
gold

周期表第11族に属し、銅族元素(貨幣金属元素ともいう)の一つ。単体は黄金色の光沢ある金属で、代表的な貴金属の一つである。

 金は人間によって使用された金属のうちでももっとも古いものの一つと考えられている。たとえば『旧約聖書』の「創世記」にあるエデンの園(その)の項中にはすでにその記載があるし、メソポタミアのシュメール人の都市国家ウルでは紀元前3000年ころすでに優れた金製の兜(かぶと)などがつくられている。またエジプトの遺跡から発掘された多くの豪華な金製品はよく知られているが、トロイ(トロヤ)、クレタ、ミケーネのエーゲ文明も金製品を多く残し、エトルリア、スキタイ、インカなども金を尊重した文明として知られている。古代七つの金属が太陽をはじめとする七星にあてはめられていたが、金は太陽と対応していた。

 ギリシア人は、初めて金を貨幣として用いたが、この制度はローマに受け継がれた。一方中国では殷(いん)王朝のころから金の使用が盛んになった。また古代朝鮮では金製品についての技術が優れていて、漢代の細工をよく伝え、新羅(しらぎ)時代の金冠、金鎖など多くの金製品が現在でも出土している。これらは、金のもつ金属としての優れた性質、すなわち細工のしやすさ、変わらない美しい光沢、腐食しないこと、比重の高いこと、さらにはその希少性などから、装飾品、財宝などとして尊重されたことによるものである。また一方、古代インドの経典などにみられるように、金の特殊性から魔力をもつものとしての崇拝を生じ、さらに金に対する人間の異常な欲望の源ともなり、中世の錬金術の流行を生み、当時の思想にまで大きな影響を及ぼすことになった。またイタリアのマルコ・ポーロの冒険やスペインのコロンブスの大航海など、東洋の金を求め、エル・ドラド(黄金郷)をたずねて旅行が盛んになり、16世紀にはコンキスタドレス(スペインの征服者の意)の中南米への侵略となって現れ、19世紀のゴールド・ラッシュによって最高潮に達した。フランシスコ・ピサロのインカ占領によるヨーロッパへの金銀の略奪、南米奥地のインディオの金銀伝説につられての探検隊などはよく知られている。

 日本では、後漢(ごかん)の光武帝(在位25~57)が倭国(わこく)の使者に金印を贈ったということが『後漢書(ごかんじょ)』に載っており、しかも「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という金印が1784年(天明4)に現在の福岡県志賀島(しかのしま)から発掘されているのが、金についての古い記録の一つである。古墳時代の遺跡からは、朝鮮から渡来したと思われる金冠など多くの金製品が関東・関西を問わず出土しており、九州沖島(沖ノ島)の宗像(むなかた)大社沖津宮(おきつみや)の古代遺跡からは純金製の指輪が出ているので、古くから金が使用されていたことは確かである。また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の文武(もんむ)天皇5年(701)の条には対馬(つしま)国の産金をうかがわせる記述がみられ、749年(天平21)聖武(しょうむ)天皇の時代、奈良東大寺大仏の塗金に際して陸奥(むつ)国から砂金を献上したという記述がある。そのころ、この金の発見がきわめて大きな事件であったことは、年号が改められ(天平感宝と改元)、大伴家持(おおとものやかもち)らによる喜びの歌がつくられたことからもうかがえる。その後も金が重用されていたことは、正倉院の遺品、現在残っている多くの仏教美術品などからも推定できる。また10世紀ごろから日本の産金量はきわめて増大したものとみられ、大陸貿易の重要な輸出品となっていた。そして奥州藤原氏の黄金文化を生み、近世戦国大名の金山開発へと進んだが、江戸中期以降は鉱脈が枯渇して衰退した。

 これまでに発見された世界最大の自然金は、1869年オーストラリアのビクトリア州で発掘されたもので、重さは2520オンス(約71キログラム)あり、これから2280オンスの純金が得られている。

[中原勝儼]

命名の由来

金の元素記号Auは、ラテン語の「灼熱(しゃくねつ)の夜明け」を意味するaurumからとったものであるが、これはヘブライ語の光を意味するorまたは赤を意味するausからきたものといわれており、フランス語もorである。また英語のgold、ドイツ語のGoldは、ともにサンスクリットの輝くという意味のjvalitaからきたものとされている。日本では古くから黄金(こがね)とよんでおり、「久しく埋りて衣を生ぜず、百度錬するも軽からず、革(あらた)むるに従って違わず」として五色(ごしき)の金(かね)(黄金=金、白金(しろがね)=銀、赤金(あかがね)=銅、黒金(くろがね)=鉄、青金(あおがね)=鉛)の最たるものであった。

[中原勝儼]

存在

大部分が自然金の形で石英脈中に産出する(産出状態から山金(やまきん)といわれる)が、母岩が風化して細粉となり、比重が高いため川底の砂礫(されき)中に沈積した砂金としてみいだされることが多い。多くは微粒として存在するが、ときには塊金として数キログラム程度のものがみいだされることもある。砂金は古代から多く各所で産出したが、現在ではほとんど採取されてしまい、その生産は少ない。自然金は純粋の金ではなく、多くは銀との合金(エレクトラム)で、その品位は65~99%である。金の鉱物としては自然金のほか、テルル金鉱、ペッツ鉱、カラベラス鉱などが知られている。また銅鉱物、鉛鉱物などにはきわめて微量の金が含まれていることが多い。世界的な金鉱床のおもなものとして、南アフリカ共和国のランド地方の含金礫岩層が世界金生産額の大部分を占め、その他各種の硫化物鉱を伴う鉱床(難処理鉱)は、カナダ、ウラル、アメリカ、オーストラリア、朝鮮などにある。日本の金鉱山は、単純石英金銀鉱脈(易処理鉱)であることが多い。

[中原勝儼]

製法

産出状態その他の状況によって選鉱、精錬の方法は異なるが、一般に選鉱法(比重選鉱、浮遊選鉱)、混汞法(こんこうほう)、シアン化法、またはそれらの組合せが用いられる。これらはいずれも湿式製錬である。このうち、比重選鉱法および混汞法が古くから行われたが、シアン化法は1890年代に工業化されたもので、これによって生産が飛躍的に増大した。

[中原勝儼]

砂金の場合

金の比重が大きいことを利用して、揺り皿法、揺り箱法、猫流し法、樋(とい)流し法などが用いられ、やや大規模のときは採金船を用いる。ただしこれらは素朴な方法で、現在ではあまり用いられていない。

(1)揺り皿法 俗に「かさがけ」といわれる。皿または鉢に含金砂泥を入れて水中に浸し、前後左右に揺り動かして土砂を流し去って、金を器底に残す。

(2)揺り箱法 下が舟底形で上に金網を張った木箱で、揺り皿法同様、砂金だけをふるい残す。

(3)猫流し法 川を仕切って適度に水を流し、その下に猫とよばれる藁(わら)または木綿の莚(むしろ)を据えておく。重い金は自然に猫の目にとどまるので、あとでこれをふるって取り出す。

(4)樋流し法 幅40センチメートル、深さ30センチメートル、長さ4メートルぐらいの樋を十数個並べて原料を流し、猫流しと同様にする。この場合、猫のかわりにアマルガムを用いると、混汞法になる。

(5)採金船 砂金選鉱を大規模に行うため、一種の浚渫(しゅんせつ)船を用い、船内でふるい分けを行ってから、洗浄や混汞法などによって採取する。

[中原勝儼]

山金の場合

日本では普通、混汞法、シアン化法が行われている。

(1)混汞法 金が水銀とアマルガムをつくることを利用したもので、アマルガムとして採取してから水銀を揮発させて金を残す方法である。鉱石は水中で適当に粉砕し、銀めっきした銅板の表面を水銀でアマルガムとしたものの上に流し、板上の硬アマルガムを集め、鉄製レトルトで蒸留して水銀を分離する。これは古い方法であり、その後、比重選鉱により金を濃縮してから、樽混汞などで水銀を混ぜて攪拌(かくはん)し、アマルガムとして回収する方法が行われている。金の採取率は60~80%で、残りはシアン化法などで再処理する。

(2)シアン化法 シアン化ナトリウム水溶液が、空気の存在で金を溶かすことを利用したものである。反応は次の式で表される。

  2Au+4NaCN+O+H2O
   ―→2NaAu(CN)2+2NaOH
このとき金を溶解している液を貴液といい、これに亜鉛末を加えると、
  2NaAu(CN)2+Zn
   ―→Na2Zn(CN)4+2Au
によって金を析出する。

 これらの湿式製錬法では、ヒ素、アンチモン鉱物、硫化銅、磁硫鉄鉱などの硫化鉱が入ると、シアン化物溶液を消費することになるので、反応は円滑に進まない。

[中原勝儼]

乾式製錬

銅または鉛の製錬の際、鉱石中の金や銀が粗銅または粗鉛の中に集まってくる。そのため、銅、鉛などの融解精錬に必要な融剤のケイ酸塩に金鉱石を用い、金銀を副産物として取り出す。日本の銅、鉛の製錬所のほとんどがこの方法を用いている。すなわち、製錬炉の産物である鈹(かわ)あるいは粗鉛に濃縮された金を溶解法あるいは電解法などによって取り出す。

[中原勝儼]

精製法

自然金および製錬によって取り出した粗金には、かなりの銀その他のものが含まれており、これを分離するには、酸分銀法と電解法が用いられる。

(1)酸分銀法 硝酸または硫酸で銀を溶かし、金だけを残す方法である。日本ではほとんど行われていない。

(2)電解法 粗金を板に鋳造して正極とし、電解液に塩化金を用いて負極の純金板上に金を析出させる。析出した金は黒鉛るつぼ中で融解し、インゴット(鋳塊)とする。純度は99.99%以上であるが、不純物としてパラジウム、銀などが混入する。

[中原勝儼]

性質

展性、延性ともにきわめて大きく、通常の金箔(きんぱく)で厚さ0.0001ミリメートルとなり、また1グラムの金を約3000メートルの針金とすることができる。純金の色調はその状態で異なり、塊状のものは黄金色であるが、粉末やコロイドにすると赤ないし紫、融解すると緑、蒸着膜では赤にみえる。また薄い箔では透過光線によって緑から青色となる。電気、熱の良導体で、銀、銅に次ぎ、導電率で銀の67%、比抵抗は2.2×10-6Ω・cm(18℃)、また熱伝導度は0.708cal/cm・sec・deg(20℃)で、銀の70%である。硬さは2.5~3である。空気中、水中できわめて安定で、色調を変えることがなく、また酸化剤によっても酸化されず、酸やアルカリにも溶けない。しかし王水には溶けてクロロ金(Ⅲ)酸になる。酸素が存在するときには、シアン化アルカリ水溶液にシアノ金酸塩をつくって溶ける。酸素、硫黄(いおう)とは高温でも反応しないが、塩素、臭素とは直接結合する。通常の化合物の酸化数はⅠとⅢである。

[中原勝儼]

用途

多くの国で貨幣の基準として用いる特別な金属で、ほかに主として工芸品、装飾品などに、また歯科医療、万年筆のペン先、人絹や合成繊維などの紡糸口金、ガラスや陶磁器の着色剤、電子工業用、検電器の箔などにも使われる。純金のままでは軟らかすぎるので、普通は銅、銀および白金族元素などとの合金として用いる。合金としての品位は、パーミル‰あるいはカラットKで表す。カラットは純金を24Kとし、たとえば金貨は21.6K(金90%)、義歯20~22K(金約83.3~91.7%)、装身具18K(金75%)、金ペン14K(金約58.3%)などである。

[中原勝儼]

金の文化史

金は、自然状態でみいだされることがあり、その黄金に輝く光沢から、早くから人類の目をひきつけてきたに違いない。金は、一般的に最初に発見された金属と考えられている。中国では、「金」が金属一般をも意味し、三品あるいは五金という色を基準にした金属の分類が古くから行われていた。そのなかで金そのものは黄金とよばれる。しかし、エジプトでは銅の発見が先であったといわれ、アフリカでも金が「黄色の鉄」「黄色の銅」とよばれるように、銅などより発見が遅れた。南アメリカやメキシコでは金が最初の金属であるが、北米の先住民の間では銅の発見が先行した。金には、こうした発見・利用の初期から、実用的・経済的価値よりも、美意識上や呪術(じゅじゅつ)上の価値が大きかったと考えられる。金は、輝きと色、金属としての優れた性質などから、貴金属中の貴金属とされ、高貴さ、純粋さ、豊饒(ほうじょう)、富、不死などのさまざまな象徴的価値を帯びている。

 神話などのうえで、金は太陽と結び付いている。ギリシア神話の天神ゼウスがダナエを妊娠させるべく身を変えた黄金の雨は、太陽光線を意味している。そして、金は「地中の太陽」といわれ、16世紀のヨーロッパにおいても、河床でみつかる自然金は、太陽によって地中から引き出されたとの観念が存在していた。また金鉱石は太陽の影響の下で成長すると考えられていた。金は硫黄から生じ、天(おもに太陽)の働きによって、地中で精製純化されるといわれた。このような鉱石の成長・変成の考えは、中世のヨーロッパだけでなく、中国やインド、東南アジアなどでもみられる。この観念はまた錬金術を生み出す背景にあった。すなわち、自然の状態においてすべての鉱石は高貴な金属である金に成長すると信じられ、錬金術はこの過程を促すものと考えられた。太陽・天と結び付き、至上の価値を帯びる金は、王権とも古くから結び付き、冠や杖(つえ)、笏(しゃく)など支配をしるすものに用いられ、あるいは金製品の使用が王や支配階級に限られることがあった。古代エジプトにおいて、神の身体は金でできていると信じられ、神となることによって、ファラオ(王)の肉体も金になるとされた。純金のファラオの仮面は、こうした考えに基づくとともに、永遠や不死を象徴している。インドのマヌ法典で、金銀は水と火との結合から生じるとされる。それゆえ金は完全な金属で、純粋な精神や自由・不死を象徴した。それはまた王権や高貴なものの徴(しるし)であった。

 支配者の家畜であるウマのと畜に用いられるナイフは、他の動物の場合と違って金製のものであった。中国においても、卑金属などから金銀を得る錬丹術(錬金術)が、同時に不老不死の霊薬の獲得を目ざしていたように、金は永遠不滅なものと考えられ、貴重な神仙薬であった。そして、金が医学的に実際上の効果をもつとされた。たとえば、効き目のある軟膏(なんこう)の価値は、含まれる金箔(きんぱく)にあり、金が人の身体に生命力を伝えると考えられた。金の皿や椀(わん)を用いて飲食することは、長命をもたらすと信じられた。また金や宝石を死者の体につけることは、遺体の腐敗を防ぎ、死者の再生を助けると考えられた。

 金の医学的効用は、中国以外の社会の初期医学にもみられ、古代ギリシアにおいて黄疸(おうだん)に効くのは金貨を煎(せん)じた薬とされるように、俗信のなかにも生きている。金はまた、多くの社会において、呪術的力をもつとみなされ、護符や魔除(まよ)けのために用いられる。たとえば、ビルマでは、金銀をつけること自体に身を守る効果があり、肌の下に金を埋め込むことは不死身の身体をもたらすと信じられ、また効力を増すために護符を金箔で覆う。

 以上のように、さまざまな側面において高い価値の置かれる金は、それを手に入れようとする人々の情熱と欲望をかき立て、スペイン人のインカ帝国征服にみられるような、歴史上のできごとを引き起こし、幾多の伝説を生み出してきた。ギリシア神話などにみられるグリフィンは、鷲(わし)の頭と翼に獅子(しし)の身体をもつ怪獣で、黄金を守るといわれ、金を手に入れようとする者は、この怪獣と戦わねばならないと伝えられる。ある伝えでは、インドの北の荒野に住むというが、ヘロドトスの『歴史』によれば、ヨーロッパの北方、あるいは金の文化で有名なスキタイのはるかかなたに住む単眼の種族がこの怪獣から金を奪ってくるという。

 スマトラにおいても、金の採鉱は盗みと考えられており、金鉱石を取り出すときには沈黙が保たれねばならないとされる。またここでは、金銀の精霊は十分に敬意をもって接しなければならないと考えられ、ことに錫(すず)や象牙(ぞうげ)などを金の採掘場に持ってこないように注意される。それらのために、鉱山の霊が金を消滅させると信じられているからである。マレー人の間でも、金の精霊が神の保護の下にあり、金は地中にある限り魂をもつが、人によって取り出されると魂が逃げ去るといわれる。このように金が守護霊や魂をもつとの信仰が存在し、採鉱にあたっての祈りや祭儀、またさまざまなタブーがみられる。

[田村克己]

貨幣としての金

貨幣の素材として必要な条件としては、一般に、(1)それ自身が価値をもち、(2)その価値が安定しており、(3)品質が均一であり、(4)分割しても価値が損なわれず、(5)減耗のおそれがなく、(6)運搬や保管が容易である、ことなどがあげられる。これらの性質に優れているのが金、銀、銅であるが、とくに金であった。

 金が貨幣として使われるようになったのは、物品貨幣から金属貨幣になった時期であり、当初は秤量(ひょうりょう)貨幣として用いられていた。一定の形状、品位、量目を定め、刻印を打った最古の金貨は、紀元前7世紀にリディア王国でつくられた。古代ギリシア・ローマの時代、ビザンティン時代を通じて金貨は銀貨とともに使われていた。ヨーロッパでは銀貨が主として流通していたが、13世紀にはベネチア、フィレンツェなどの都市国家で金貨が鋳造されるようになった。とくに13世紀なかばにフィレンツェでつくられたフロリン金貨は有名である。

 しかし、金貨が本格的に貨幣としての地位を確立したのは、1816年にイギリスが金本位制度を採用して、1ポンド金貨を本位貨幣として発行し、世界各国がこれに倣って世界的に金本位制度が普及した19世紀以降のことであった。金本位制度下では、金貨が本位貨幣として使われるばかりでなく、紙幣もこの代用物であった。紙幣には「金貨と交換する」という表示があり、中央銀行は紙幣と金貨の交換に応じた。この紙幣を兌換紙幣(だかんしへい)とよんでいる。金本位制度は第一次世界大戦によって一時中断されたが、主要国は戦後ただちに復帰させた。しかし、1930年代の世界不況のなかで、イギリスが1931年に金本位を停止したのを初めとして、各国は金本位制度を離れ、管理通貨制度の時代となった。

 日本で最初につくられた金貨は760年(天平宝字4)の開基勝宝であるとされている。その後、律令(りつりょう)国家の衰えとともに、日本の鋳銭事業そのものが停止され、主として唐(とう)銭、宋(そう)銭、明(みん)銭などの中国銭が流入して通用していた。戦国時代になると諸国の金山が開発され、戦国諸侯により各種の金貨がつくられるようになったが、その使途は限定的であった。豊臣(とよとみ)秀吉が鋳造させた天正大判(てんしょうおおばん)は特大形の金貨として有名である。江戸時代には貨幣制度が統一され、金、銀、銅の三貨を本位貨幣として鋳造し、一両小判という金貨を貨幣制度の中心に置いた。

 明治になると、1871年(明治4)に新貨条例を制定し、通貨の呼称を円とするとともに、1ドルとほとんど同じ重量(1.5グラム)の1円金貨をつくり、円の価値を定めた。しかし、このときには同時に1円銀貨(貿易銀)もつくり、無制限の通貨として認めたため、金銀比価の拡大とともに金貨はまもなく流通市場から姿を消してしまった。その後、1897年に日清(にっしん)戦争の賠償金を基礎に金本位制度を採用し、1ドル=2円というレートを設定した。日本の金本位制度も第一次世界大戦で中断し、戦後は、戦後恐慌、関東大震災、金融恐慌と経済的打撃が引き続いたため円レートは下落した。ようやく1930年(昭和5)1月に金輸出を解禁して、1ドル=2円という旧平価で金本位制度に復帰したが、この直後に大不況にみまわれたので、1932年12月には金輸出を再禁止した。これ以後実質的には金と紙幣とのつながりはなくなっていたが、1942年に日本銀行法が制定されて、法的にも管理通貨制度が確立した。このときから、紙幣に兌換の表示が消え、現在に至っている。

[荒木信義]

国際通貨と金

金本位制度の時代には金が唯一の国際通貨であったが、管理通貨制度の時代に入っても、国際通貨としての金の役割は残されていた。まず第一に、第二次世界大戦後の国際通貨体制であるIMF(国際通貨基金)体制はドルを中心としたものであったが、そのドルは1オンス=35ドルというレートで金と交換されるという約束のもとに国際通貨となった。つまり、金はドルの裏づけという意味において国際通貨であった。第二に、金は外貨準備の重要な構成要素となった。第三に、IMF協定によって、加盟国は自国通貨の為替(かわせ)平価を金量(またはドル)で表示することが義務づけられていた。ということは、金が価値尺度として使われていたのであった。

 しかしながらこのような国際通貨としての金の役割も、1971年8月にアメリカがドルの金兌換を停止したので、しだいに後退した。IMF協定の改定案が1978年4月に発効し、1オンス=35ドルという金の公定レートは廃止された。現在では金価格は市場で決まることになっている。すなわち、価値基準としての金の役割はなくなったのである。他方、外貨準備としてはなお金は有力な準備資産となった。

 1990年以降、金価格の低迷を背景として、外貨準備としての金の役割は、世界全体としてみると低下傾向をたどった。とくに、ヨーロッパ各国の中央銀行による金売却が目だった。イギリス政府は、計画に基づいて金売却を実行した。また、「ユーロ」誕生に伴って発足したヨーロッパ中央銀行(ECB)は、外貨準備に占める金の割合を15%に設定したが、これは「ユーロ」参加国の平均金準備比率よりも、若干低い比率であった。

 21世紀になると、金は復権の方向に動きだした。この要因の第一は、ECBを含むヨーロッパ各国の中央銀行と中国をはじめとする新興国の金準備を重視する動きである。1999年9月のIMF総会において、ECB総裁が、「われわれは金準備を外貨準備のなかできわめて重要な資産として認識する」との声明を発表した。これによって各国中央銀行からの供給が減り、金の需給が改善されて、2003年に金価格は1オンス=300ドル台となり、2006年には600ドルを超えた。

 第二に、社会主義体制の崩壊後、中国、インドなど金選好の強い大人口国の経済成長が加速し、これに伴う金需要が金価格を押し上げたことである。2007年に金価格の年平均値は、696ドルとなった。

 第三に、2008年に発生したアメリカ発の一大金融危機がドルの衰退を招き、ドルから金へと切り換える動きを促進したことである。2008年に金価格は872ドルとなった。

 社会主義体制崩壊後における中国、ロシアなど新興国の経済発展とアメリカ発の金融危機が重なる相乗効果によって、ドルの後退と金の浮上が起きた。とくに、外貨準備としての金の増加が顕著となった。

 アメリカの貿易赤字は、ドル下落の要因となるが、貿易黒字増加で外貨準備を積み上げた中国や中東産油国がアメリカ国債を購入したため、ドルの価値は維持されていた。アメリカ国債の半分近くが外国の購入であった。ところが、金融危機で事態は一変する。金融危機対応のアメリカ国債の大増発によって、ドルに警戒信号が出されると、下落リスクを避けようと、黒字国は外貨準備に占めるドルの割合を低下させる政策をとりだした。注目されるのは、中国の外貨政策であり、中国はすでに世界最大の外貨準備をもっているので、これ以上アメリカ国債購入を増やすわけにはいかず、2009年4月外貨準備に占める金の割合を増やす方針を発表した。中国は1000トン強(約3215万オンス)の金準備を保有しているが、それでも外貨準備に占める金の割合は2%に満たず、欧米諸国の平均60%~70%に比べ異常に低く、中国が金準備を大幅に増やす可能性はきわめて高い。また、巨額のドルを外貨準備として保有しているアラブ首長国連邦は外貨準備の10%ずつをユーロと金にシフトさせる方針を発表した。さらに、ロシアもアメリカ国債の購入を控え、かわりに金を購入する意向を表明した。中国をはじめとする大人口新興国の発展につれて、国際通貨としての金の役割は着実に向上しよう。なお、日本の公的金保有高は2460万オンス(2009)で、欧米諸国と比べるとかなり低い水準にある。

[荒木信義]

金取引

1968年3月以降、金価格は公定レートと市場価格の二本建てとなり、1978年4月以降は市場価格一本となった。金価格は、ロンドン、チューリヒニューヨーク、香港(ホンコン)といった国際市場の決める価格によって毎日変動する。金の市場価格は、1970年代は石油価格の暴騰を反映して急上昇し、1980年1月には一時的に1オンス=850ドルという値がつけられたが、その後は下落傾向をたどり、1985年の金価格は300ドル台となった。さらに2001年平均で1オンス=271ドルまで下がったが、2002年以降は再度上昇に転じている。

[荒木信義]

日本

日本の金取引は、第二次世界大戦前に禁止され、戦後も民間人の金輸入は禁止されていた。業務用に必要な金は政府が輸入し、業者に売っていた。しかし、1973年(昭和48)4月に金輸入が自由化された。日本の金価格は、ロンドン市場の金価格を基にして、1グラムにつき何円という価格を決める方式をとっており、大手地金(じがね)業者などが新聞に金価格を公示している。日本での金取引が活発になるに伴い、金市場設立の動きが出てきて、1982年2月に東京金取引所が開設された。また、同年4月からは銀行、証券会社による金取引が行われるようになった。東京金取引所は、1984年11月に東京繊維商品取引所、東京ゴム取引所と統合されて東京工業品取引所となり、2013年(平成25)に名称を変更し東京商品取引所となった。

 日本の金取引が一般に普及するきっかけとなったのは、多額の資金を用意しなくても買える地金型金貨の流行であった。地金型金貨は、重量単位で、その価値は、基本的に金貨に含まれる金量に金の時価をかけた額であるが、純金の価格に金貨をつくるプレミアムがかかり、わずかに純金価格を上回る。しかし、デザインが好まれて、アクセサリーとしての購入も多い。最初の地金型金貨は、南アフリカのクルーガーランド金貨であったが、カンガルー金貨(オーストラリア)、ウィーン金貨(オーストリア)、イーグル金貨(アメリカ)、パンダ金貨(中国)などそれぞれの国柄を表す金貨が発売されており、日本は有力市場となっている。

 金貨の第二のタイプが記念金貨である。これは、額面の価格と金貨が含有する金の価値とは一致せず、通常額面よりも相当低くなっている。オリンピック記念金貨がポピュラーとなっているが、特筆すべきは1986年の「天皇在位60周年記念」金貨である。額面は10万円であるが、金の含有量は約20グラムである。

 投資としての金取引も、しだいに多様化している。地金あるいは金貨の購入のほか、少額の資金を積み立てて金を購入する「純金積立」が、商社、地金商、証券会社、銀行で扱われている。また、金取引で利益を得る先物取引も、商品取引所で行うことができるが、これはハイリスク・ハイリターンのため、余裕資金の範囲内で、自己責任で投資することを忘れてはならない。

 2008年の世界的金融危機によって、日本においても資産としての金が見直され、金取引は活発となった。日本の金価格は、1973年4月1日に輸入自由化とともに民間の金取引が行われるようになった時点において、1グラムは1000円であり、その後の金価格は、一般物価よりも上昇テンポは鈍く、21世紀の初期における金価格は1500円前後で推移した。しかし、2008年の金価格は3000円台に上った。

 日本では、預貯金を中心に資産が運用されていたが、1990年代に超低金利時代となったことによって、外国債を中心とした投資信託が分散投資の一つとなっていた。ところが、金融危機によって、投資資産が大きな損失を被ったことで、安全資産への指向が強まり、その代表的資産として、金の人気が高まった。また、日本でも金融危機対応の巨額の資金供給が行われたので、国債の価値回復の可能性が低下しており、インフレーションのおそれもある。これも金が選好される要因となっている。

[荒木信義]

『M・エリアーデ著、大室幹雄訳『エリアーデ著作集5 鍛冶師と錬金術師』(1973・せりか書房)』『青柳守城編著『金の知識』(1982・東洋経済新報社)』『N・フリューラー他編、木村尚三郎監修、小林勇次他訳『原色図録金の世界』(1984・東洋経済新報社)』『荒木信義著『円・ドル・金』(1986・日本関税協会)』『呂戊辰著『貴金属の化学』(1987・日刊工業新聞社)』『山本博信編著『貴金属のはなし』(1992・技報堂出版)』『荒木信義著『金の文化誌』(1994・丸善)』『湯浅赳男著『文明の「血液」――貨幣から見た世界史』増補新版(1998・新評論)』『渡辺勝方・加藤洋治著『個人投資家のための貴金属取引入門』(2002・パンローリング)』『R・J・フォーブス著、平田寛・道家達將・大沼正則・栗原一郎・矢島文夫監訳『古代の技術史(上)金属』(2003・朝倉書店)』『豊島逸夫著『金を通して世界を読む』(2008・日本経済新聞出版社)』『ピーター・L・バーンスタイン著、鈴木主税訳『ゴールド――金と人間の文明史』(日経ビジネス人文庫)』



金(中国の王朝)
きん

中国の王朝(1115~1234)。いわゆる征服王朝の一つ。金王朝を建てた女真(じょしん)族は、女直(じょちょく)ともよばれ、渤海(ぼっかい)国時代には渤海の被支配民として、中国東北地区の松花江、牡丹江(ぼたんこう)、黒竜江(アムール川)下流域、沿海州(現沿海地方)に分布していたツングース系の民族である。926年、渤海国が遼(りょう)に滅ぼされると、その国の王族や貴族、豪族は遼陽やその南に移され、係遼籍(けいりょうせき)女真、熟(じゅく)女真などとよばれ、遼国の直接支配を受けた。しかし、そのほかの女真人は現住地で生活を営みながら遼の支配を受けた。彼らは生(せい)女真、生女直などとよばれた。金王朝を建設したのは生女直のなかの完顔(ワンヤン)といわれる一部族である。

[河内良弘]

金の建国

遼代における完顔(ワンヤン)部の生活圏は、黒竜江省ハルビン東方を流れる阿什河(アシホ)(金代には按出虎水(アルチュフすい)とよばれた)の流域で、その中心は阿城県付近であった。完顔部の祖先の世系を記した書は『金史』「世紀」で、その冒頭には始祖以来太祖に至るまで11代(8世代)の首長名が記されている。始祖、徳帝、安帝、献、昭祖、景祖、世祖、粛宗(しゅくそう)、穆宗(ぼくそう)、康宗、太祖がそれである。このうち、始祖以下昭祖に至る5代の人々の事績は歴史的事実ではなく空想的で、したがってその実在もあやしいとされている。第6代景祖の事績も歴史的事実とするには疑わしい点もあるが、このころから完顔部は有力な勢力になり始めたのであろう。そして第7代世祖劾里鉢(がいりはつ)、第8代粛宗頗剌淑(はらしゅく)の時代に、完顔部の勢力は松花江流域および牡丹江上流地方にまで拡大した。第9代穆宗盈歌(えいか)は豆満(とまん)(図們)江上流域に親征し、綏芬(すいふん)河、興凱(こうがい)湖地方にも遠征軍を送ったので、完顔部の支配圏は東北地区の東部全域に及んだ。このため遼は盈歌に生女直節度使の職を与えている。第10代康宗烏雅束(うがそく)は節度使の職を継いで完顔部の首長となり、朝鮮東北の咸興(かんこう)平野にまで勢力を伸ばし、その支配する地域は渤海国のそれに匹敵するほどになった。1113年、烏雅束が亡くなると、弟の阿骨打(アクダ)が都勃極烈(トボギレ)の地位につき首長となり、遼から節度使に任ぜられた。遼代には優勢でもなかった完顔部が大勢力にのし上がったのは砂金のためであろう。按出虎水とは女真語で黄金の川の意で、この川でとれる砂金は馬、真珠、貂(てん)皮などとともに、宋(そう)、遼、ウイグルと交易され、軍需物資の調達に役だったと察せられる。

 このころ遼では聖宗、興宗、道宗3代の黄金時代の後を受けた天祚(てんそ)帝の時代で、天祚帝は華美な中国の文物を愛し豪奢(ごうしゃ)な生活を送った。その奢侈(しゃし)を支えるため女真人への搾取も強化され、貢納督促のために派遣された遼の官吏の誅求(ちゅうきゅう)にも目に余るものがあったので、女真人は反感を募らせ民族主義的自覚に目覚め、対遼戦を決意した。

 阿骨打は1114年、遼の前線基地、寧江州を攻めて大勝し、開原、農安地方の熟女真や遼東地方の渤海人を招撫(しょうぶ)し、15年、皇帝の位につき、国を大金と号し、収国と年号をたてた。

[河内良弘]

金の制度

金の中央政府の行政組織は、政権発足以来幾度か改廃されたが、1121年以後、国政は諳班(アンバン)(大なる意)、国論忽魯(グルンフル)(総理)、国論阿買(アマイ)(第一)、国論昃(しょく)(第二)、国論移賚(イライ)(第三)および迭(テツ)(副)の6人の勃極烈(ボギレ)によって運営された。勃極烈制は、諮問、行政、司法などの機能を備えた金国最高の政務執行機関である。このうち国論忽魯勃極烈の撒改(さんかい)は、阿骨打とは国家を二分し、その一半を担うほどの豪族であり、国政は諸勃極烈全員の合議によって決する慣行が支配的であったから、皇帝も独裁的権力を振るうことはできなかった。建国前の女真各部の首長は、平時には孛菫(ボキン)、戦時には猛安(もうあん)(千戸長)あるいは謀克(ぼうこく)(里長)とよばれた。阿骨打はこの女真村落の古い軍事組織を再編成し、新しい時代の行政組織の単位として採用し、300戸を1謀克とし、10謀克軍で1猛安軍を組織した。猛安・謀克制は女真人のみならず、新しく治下に入った遼の住民に対しても実施された。猛安・謀克の上位の地方行政機関としては10の路が置かれ、都統、軍帥、世襲万戸などが統治した。

 太祖阿骨打は1123年没し、弟の呉乞買(ごこつばい)が即位して太宗となった。これより先、西夏と連絡していた遼の天祚帝は、25年金軍に捕らえられ遼国は滅亡した。同年、太祖の子宗望は河北方面から、撒改の子の宗翰(そうかん)は山西方面から宋に侵入し、1126年宋都開封を陥落させ、27年宋の皇帝徽宗(きそう)、欽宗(きんそう)や、皇族、官僚らは金の本土に連れ去られた。この事件を靖康の変という。新しく金国に帰属した華北を統治するため、1126年、尚書(しょうしょ)、門下(もんか)、中書(ちゅうしょ)の三省が設けられ、三省の運営に燕京(えんけい)(北京(ペキン))出身の漢人官僚が採用され、科挙も実施された。このように太宗時代には、女真人統治には勃極烈制度、漢人統治には三省制度というように二重の制度が共存したが、しかし金国は華北統治のため、初め楚(そ)国、そののち斉(せい)国という傀儡(かいらい)国を建てたので、二重体制は永続しなかった。金の左副元帥宗翰(そうかん)は華北の占領地のうち、河南、山東以南の地に斉国という国をつくり、もと済南府知事の劉予(りゅうよ)という者を皇帝とし、開封を都とした。しかし35年太宗が没し煕宗(きそう)が即位すると、宗翰は外地での行政権を剥奪(はくだつ)されて没落、37年死亡し、支持者を失った劉予も皇帝の座を降ろされ、斉国は廃止された。

[河内良弘]

中国的専制国家へ

煕宗の時代、金では強硬派が政権をとり、宋との間に戦いが起きた。宋の岳飛(がくひ)らはよく戦ったが、1142年、金を君、宋を臣とし、淮水(わいすい)と大散関を結ぶ線を国境として和議が結ばれた。このため金は淮水以北を直接統治することとなり、多数の女真人がその地に移住させられた。煕宗の時代には諸制度が中国式に改められた。官制では勃極烈制が廃止され、これにかわり尚書、門下、中書の三省が最高の政務執行機関として登場した。そしてこの三省を統領する役職として領三省事があった。領三省事にはそれまで勃極烈であった人が任命されている。煕宗の時代は女真の旧慣は払拭(ふっしょく)されておらず、金国が中国的専制国家に成長する過渡期であった。

 煕宗は治世の中ごろから精神に障害をきたし、人望を失っていた。海陵王は1149年煕宗を殺して帝位を奪った。そして宗室や重臣を殺し、門下省、中書省を廃止し、政務執行機関を尚書省のみとした。また地方行政組織も改変し、中央の官僚を節度使とし、路に派遣して長官とし、中央集権的専制国家を完成させた。また首都を上京会寧から燕京に移し、中都とした。海陵王は南宋を滅ぼして中国を統一しようとし、61年南征軍をおこしたが、南征の途中で世宗のクーデターが起き、不満をもつ部下に殺され、世宗の治世となった。

 世宗は渤海の貴族や豪族の支持を受け、遼陽で即位し、1162年燕京に遷都し、契丹(きったん)の反乱を鎮定し、宋と和議を結んだ。世宗は女真の伝統文化の維持に努め、64年女真文字により漢籍を翻訳し、71年女真進士科を設け、女真語により試験をして女真進士を登用し、京師や地方に女真語による学校を設けた。また華北に移住した猛安・謀克戸が貧窮していたので、80年土地調査を行い、女真人に土地を再分配したが一時的効果しかなかった。

 世宗の後を継いだ章宗は金の皇帝中随一の文化人で、豪奢(ごうしゃ)な生活にふけった。官庁の経費も膨張し、そのうえモンゴル系遊牧民の侵入を防ぐため界壕(かいごう)を築くなど、内外の莫大(ばくだい)な出費のため財政が窮迫した。こうした金の国情に乗じ宋は金に出兵したが、宋も財政難から戦闘が継続できなくなり、1207年和議が結ばれた。

 1211年以後チンギス・ハンは金国に進撃し、中都(北京)を占領し、河北・山東地方を攻略した。金は河北を放棄し、兵を河南に移動させた。金は17年宋と戦(いくさ)を始め、またチンギス・ハンの没後、ハン位を継いだオゴタイは32年開封を囲んだ。金の哀宗は帰徳へ逃げ、ついで蔡(さい)州へ逃げたが、この地でモンゴルと宋の連合軍に攻められ、34年哀宗が自殺し、金国は9代120年で滅びた。

[河内良弘]

『外山軍治著『金朝史研究』(1979・同朋舎)』『三上次男著『金史研究』全3冊(1970~73・中央公論美術出版)』『河内良弘著「金王朝の成立とその国家構造」(『岩波講座 世界歴史9 中世3』所収・1970・岩波書店)』



金(データノート)
きんでーたのーと

元素記号Au
原子番号79
原子量196.9665
融点1064.43℃
沸点2810℃
比重19.32(測定温度20℃)
結晶系立方
元素存在度宇宙 0.187(第69位)
(Si106個当りの原子数)
地殻 0.003ppm(第69位)
海水 0.00002μg/dm3

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「金」の意味・わかりやすい解説

金 (きん)
gold

周期表第ⅠB族に属する金属元素。純粋な金属として人類が最初に知った金属の一つであると考えられている。

 金の原子記号Auはラテン語のaurumによるものであり,これはヘブライ語の〈光〉を意味するorまたは〈赤色〉を意味するausからきたものとされ,フランス語でもorである。英語gold,ドイツ語Goldは,ともにサンスクリットの〈輝く〉という意味の語に由来するとされている。日本では古くから黄金(おうごん)/(こがね)と呼ばれ,五色の金の一つとされている。

 古くから使用された理由は,大部分単体の形で産出するからである。これを自然金という。自然金の品位は65~99%程度で,おもに銀との合金(エレクトラム)である。石英脈中に含まれることが多く,山金(やまきん)と呼ばれるものはこれである。大部分は岩石の風化によって砂金として川砂中に存在する。日本でも椀掛けといって,木製または金属製の揺り鉢に入れ,水を加えて揺り動かして砂や粘土と選別する方法が古来使われてきた。しかし現在は砂金の産出量はきわめて少量で採算がとれなくなっている。

美しい黄色の光沢ある金属で,〈あかがね〉の呼名をもつ銅とともに代表的な有色金属である。しかし状態によって外見が異なり,融解状態では緑,蒸着膜は緑から青,また溶液を塩化スズ(Ⅱ)によって還元すると赤紫色コロイドとなる。これをカシウス金という。面心立方の等軸晶系で,格子定数はa=4.0786Å。電気伝導度,熱伝導度は大きいが,いずれも銀,銅にやや劣る。展性,延性は金属中最大で,0.1μmの厚さの金箔にまで広げることができる。また1gを2800mにも延ばすことができる。これは直径5Åの金線に相当する。純金は軟らか過ぎて実用には不便なことが多く,ふつうは合金として強度を増している。合金中の金の品位はカラット単位で表す。純金は24カラットである。

 貴金属の一つであって酸化に対してきわめて安定。王水以外の酸には溶けない。シアン化カリウム水溶液には溶ける。酸素とは高温でも反応しない。塩素,臭素とは反応して結合する。酸化数3の化合物のほうが安定である。錯体でないAu(Ⅰ)化合物はすべて水に難溶性であり,AuCNを除いては不均化してAu(Ⅲ)とAu(0)となる。金化合物はすべて分解しやすく,還元剤の作用または単に加熱しただけで金を遊離する。
執筆者:

日本における金の大部分は銅製錬の際の副産物として回収され,少量の金がシアン化法によって生産されている。金の鉱石としては金を10ppm(鉱石1t中に10g)以上含むものが用いられ,このように少量の金の含有量を正確に分析する方法として灰吹法が古くから使われている。金および銀を含む鉱石を粉砕して,その一定量を試金鉛とともにるつぼで溶融し,骨灰などでつくった皿(キューペル)に入れて空気を吹きつけながら約1000℃に加熱する。鉛と不純物は酸化されてキューペルに吸収され,金銀合金が残るので,硝酸で銀を溶解してのち金を秤量する方法である。これは製錬過程に生じる副産物中の金,銀を回収するのにも用いられる。

 銅の鉱石中に含まれる金,および銅の溶錬の際に使用されるケイ酸塩鉱中の金は,その製造工程中でほとんどすべて銅の中に濃縮される。そして銅製錬の最終工程である電解精製工程において,銀その他貴金属とともに銅から分離され,陽極泥(アノードスライム)として回収される。また粗鉛の精製時の副産物としても回収される。金の製錬法にはほかにシアン化法(青化法)がある。酸素が存在する条件で金はシアン化ナトリウムNaCNの希薄水溶液(NaCNで0.05~0.25%)中に錯イオンの[Au(CN)2]⁻として溶解する。溶解した金を回収するには,この溶液に亜鉛末を加えて,置換する方法がとられる。鉱石中に共存する銀,銅等もシアン溶液に溶けて,金とともに亜鉛によって沈殿するので,この沈殿物は多くの不純物を含んでいる。おもな不純物は銀である。この沈殿物(殿物ともいう)を,適当な溶剤とともにるつぼに入れて溶かして金・銀の合金とし,さらに電解精製によって金,銀を分離する。不純物を含む金銀合金を陽極として,硝酸HNO3を含んだ硝酸銀水溶液で電気分解すると,銀は陰極に析出し,金は不溶解のままで,陽極上に泥状(スライム)となって残る。これをさらに,硝酸で洗浄して,金,パラジウムなどと溶解後,再び高温で溶融して,金を95~98%含む陽極に鋳造し,塩酸,塩化金を含む溶液中で電気分解する。金は溶解しがたいので,直流に交流を加えた交流重畳電流によって電気分解することが特徴である。このようにしてできた金は99.99%以上の純度のものである。

金地金としての需要が最も多いが,銀,銅などと合金にして,装飾用,歯科用,電子工業用(IC回路用接点,リード線など),その他工業用にも多く用いられている。ほかに私的退蔵用に回る分もある。
貴金属
執筆者:

人間には,古来,あたかも植物の〈向日性〉にも似た〈向金性〉(アプトン・シンクレアー)が強くみられる。それは〈金〉という物質が固有に有する不可思議な魔力,すなわち,第1にその〈希少性〉,第2にその〈美しい光沢〉,第3にその〈不活性〉と〈可展性〉といった金属としての優れた特質を,金自体がもっているからにほかならない。金と人間との付合いは前4000年ころ,オリエントに青銅文明が興った時代がその初源であるとされる。その歴史はおよそ6000年にも及んでいることになるが,しかしこの長い期間を通じて人間が地中から掘り出した金の総量は約9万tにすぎない。しかも興味深いことに,19世紀中葉までの全世界での採掘量は,歴史的なトータルとしてわずかに5000t前後でしかなかったのである。したがって,これまで人類が手にした金の94%という圧倒的な量はここ1世紀半に掘り出されたものである,という驚くべき史実のもとにあるということになる。人類が現在保有する9万tの金について,いま仮に1g当り3000円とすると,その全量の円換算値は270兆円となる。これは1981年の日本における金融資産が1000兆円を超えていることを思えば,全世界の金がこの限りにおいてもたかだかその3割の値しか存在しないことを意味する。まして全人類が保有する全財産との比較からすれば,金の極少性は明白である。しかも現在確認されている採掘可能な金の埋蔵量は,地球の中にあと4万tぐらいしか残っていないとされる。それゆえ,地球上で人類が利用できる金の総量は,将来にわたるものを合わせても13万tにすぎないのである。

 金の美しい輝きは,古今東西を問わず,あらゆる人間の心を魅了しつづけてやむことがない。しかもその輝きは何百年,何千年たっても失われない。その理由は金が不活性の金属,すなわち,時間や他の物質による化学変化,酸化を起こさない不変の物質だからである。たとえば,かつてイギリスの首相ディズレーリが〈恋愛で心の平静を失うよりも金で平静を失う人のほうが多い〉と語ったことがあった。これは,まさに金が,不活性の黄金の輝きを永遠不滅に放つ希少の物質であるがゆえに,魔力ともいうべき不思議な力をもって人間を惑わしてきた事実を証言する言葉の一つである。金と人類6000年の歴史は,男も女も権力や富の象徴として金のためにだまし合い,金のために殺戮(さつりく)を繰り返してきた物語に彩られているとともに,そこには古代エジプトのツタンカーメン王の黄金の柩や古代中国の錬金術師たちが求めた不死の霊薬(錬金薬,西方ではエリクシルelixirと呼ばれた)に典型的に象徴され,かつまた実体化されたような,金を知ることによって人間が求めた〈永遠の生〉への凄絶な執念の物語にも刻印されている。おそらく歴史の初期段階から,人間が生を受けてこの世で知ったことの決定的なことの一つは,万物は流転するということ,すなわち,この現世にあっては永久に変わらないものはなに一つ存在しないということであったであろう。事物や事象は刻一刻と変化してゆくし,一人ひとりの人間の生も確実にいつかは消える運命を逃れることができない。仏教的にいって,人間は歴史のかなり早い時代から〈無常感〉にさいなまれてきたに違いない。だが金によって人間は,絶対存在しえないと思っていた〈永遠不滅のもの〉の実在を知らされたのであった。そして人間は〈それを,象徴的にも実体的にも,わが生としたい〉と切望するようになっていったのである。黄金の柩もエリクシルも,その飽くなき執念のなせる業であったとみなさなければならない。だからして人間は,金を神の聖位置に奉る意識さえもつに至るのであった。〈金はゼウス神の子/シミもサビも金を滅ぼすことはない〉(古代ギリシアの抒情詩人,ピンダロス)--この詩歌の一節は〈永遠不滅の物質〉としての金の特徴を見事にとらえているだけでなく,古代人が金を神とあがめ奉った気持ちを率直に表明している言葉の一つである。

 金のこのような特性は,歴史通貫的に人間の運命を,あるいは華麗にし,あるいは深刻にし,あるいはまたむごい姿態でもって翻弄させたりした。黄金郷(エル・ドラド)を求める大航海や,アメリカ西部のゴールドラッシュなど,その例は枚挙にいとまがない。一方人間はより多くの金を求めるかたわら,他方では金の可展性にも着目することによって,より少ない金によるより多くの人間的利用の方途にも腐心している。金の可展性は,1gの金が5Åの極細線にして2800mまで延び,1cm3の金から現在日本において製造され使用されている標準箔(11cm2角で0.3~0.6μmの薄さ)にして約1000枚がとれるほどである。その結果金箔が発明され,金の装飾的世界の格段の広がりが,人々の日常生活における実用品から美術工芸品,さらには宗教用具等の諸領域にも及んで,広範囲に現実化することになるのは,古代末期から中世の諸時代を通してであった。優れた箔ができるようになってくると,それを使った金糸や銀糸を織り込んだ華麗な色彩の織物が製作されるようになったり,印金(いんきん),金唐皮(きんからかわ),截金(きりがね),摺箔(すりはく),沈金,蒔絵(まきえ)といった芸術的価値のきわめて高い手法の工芸美術世界の開陳が見事にみられるようになったり,あるいは寺院の伽藍や神殿の内外装,そして仏像・仏具などの表具に貼箔・押箔がなされることで,宗教芸術史上のみならず建築美術史上においても,画期的な新時代の創出と展開をもたらすことに直結していくのであった。洋の東西を問わず,絢爛にして豪華かつ精緻な中世芸術の真髄は,〈中世的製箔法〉の創案,完成,その社会的定着に至る職人技術との密接な関連のうちにあったことを見逃してはならないのである。すなわち紙あるいは羊皮紙の間に金を挟み,たたいて延ばしていくという製箔技術が,ヨーロッパでも日本でもほぼ同じ12~13世紀に登場するのである。

 以上のような金利用をめぐる人間模様は古代から中世にかけて出そろうが,このほかにも金はそれ自体としてつねに財産としての機能と意味をもちつづけてきていること,あるいは金貨すなわち貨幣として鋳造され,流通をみた歴史もあるということ,また,西欧錬金術の長い間の試行錯誤が近代科学を発達させる直接の導因となったという事実なども忘れてはならない。そして今日,今度は逆に,発達した近代科学がまさに科学的に金のさまざまな知られざる特性を発見することによって,広く工業,装飾用ばかりでなく,宇宙産業にまで及ぶあらゆる分野で,金の新たな利用と活用がみられるに至っている。いくつかの事例を挙げておこう。私たちの周りにみられる近代的な商品たとえばオーディオのアンプやプレーヤー,テレビ,ラジオ,電卓,電話機,自動車,それにパソコンやワープロといったコンピューター製品などにも金(箔)が使用されているばかりではない。金(箔)は航空機やミサイル,宇宙開発にとって不可欠の素材でもある。このように,今日ますます広くいろいろな用途に金(箔)が使われるようになってきている理由は何であろうか。それは要するに,金が,その電気抵抗値が他の物質よりもはるかに低く,わずかな電流でも通してしまう性質を備えていること,また不酸化物質であるため腐食したりさびることがなく導体としてきわめて安定した物質材である,ということにある。それゆえ,ICなどの半導体やプリント回路基盤には,なくてはならない素材となってきたのである。また金には高熱を反射する性質があり,航空機産業や宇宙開発の分野ではジェット機やロケットに従来使用してきた石綿をつめた断熱材に代えて,軽くて薄い金フィルム(金箔)を採用することで機体重量の軽減に資している。
錬金術
執筆者:

金は工業,装飾用に重要な貴金属であるが,金にはもう一つの重要な役割,すなわち貨幣としての役割がある。金が貨幣として用いられた理由として通常挙げられるのは,つぎの3点である。(1)加工が容易であるにもかかわらず,変質も化合もしない。(2)他の物質から合成することができない。(3)大量には存在しないが,入手が不可能に近いほど希少ではなく,貨幣として用いられるだけの希少性と純粋性と美しさをもっている。金と交換するのを拒むものがいないから,金は一般的交換手段つまり貨幣となりえたし,合成が不可能であり,変質もしないから,貯蓄手段となりえた。

 古代と呼ばれた時期においても貨幣の役割をもつものが存在していた。しかし,それは金属貨幣ではなく,小さい部族社会の中でしか通用しなかった。やがてより広い世界をつつむ市場が成長してくるにつれて,貴金属が共通の貨幣として使用されるようになり,やがて金が広い〈世界〉市場での貨幣の地位につくに至った。ローマ帝国では金貨が使用されていたが,帝国滅亡後はおもにビザンティンおよびアラビア諸国に流通していた。ヨーロッパでは銀貨が主として流通していたが,13世紀にはいってからヨーロッパでも金貨が鋳造されるようになった。経済力の強い国の金貨が最もよく受容されるようになったのは当然であり,13世紀半ばフロリン金貨(フローレンス)が抜群の地位を占めていた。16世紀になるとオランダが有力となり,リール金貨が〈世界貨幣〉となった。銀貨は金貨と併用されていたが,やがて18世紀末にイギリスは銀貨の自由鋳造を禁止し,事実上の金貨中心の体制に移ることになった。19世紀初めイギリスはソブリン金貨を発行し,それを本位貨幣とした。ドイツをはじめ他の諸国もイギリスにならい,本位貨幣として金貨を鋳造し,発行した。金本位制度を各国が採用し,国際金本位制度が成立したことにより,金はついに法制的に世界貨幣(国際通貨)となった。このようにして金は世界の通貨制度のうえで中心的な地位を確立するにいたったわけである。第1次大戦とともに,金をめぐる情勢は大きく揺らいだ。結局において,戦費調達のためヨーロッパの交戦国は金を手放した。その結果,イギリスをはじめ各国とも金の不足のため,金貨の鋳造・流通を停止してしまった。ヨーロッパ諸国がもっていた金はアメリカへ流出し,そこへ集積していったからである。すなわち大戦前の1914年に20億ドルに満たなかったアメリカの金保有高が,戦後30億ドルを突破し,35年には100億ドル,40年には200億ドル台に乗せた。こうした情勢下,アメリカ以外の各国は金兌換を停止せざるをえなくなった。金のアメリカへの偏在は世界におけるドルの地位を強化することになった。1930年代の世界的不況のなかで,アメリカはドルと金との間の法定平価を切り下げ,1オンス=35ドルとしたが,この金のドル公定価格はその後約40年間続くことになる。

 第2次大戦が終わったとき,アメリカ以外の各国は自国通貨と金との法定平価による兌換(だかん)を復活させることはできなかった。金は国際取引の決済に最終的に用いることのできる世界貨幣としての機能と信認を維持していたから,金を重要な対外支払のための準備資産として保持し,その増大を心がけ,多くの人が金を資産として蓄えようとした。これを金選好という。金との兌換が保証されていたドルは世界の基軸通貨となったが,アメリカから流出したドルが巨額になるにつれて,ドルの金兌換に不安が生じてきた。アメリカは金のドル公定価格を引き上げるとの予想が広まり,世界の金選好は高まった。

 すでに1950年代末から自由金市場で投機によって金価格が急騰したため,61年に欧米の中央銀行は保有金を拠出して〈金プール〉をつくり,ロンドン金市場へ売り介入を行った。しかし市場の金価格上昇を抑えることはできず,ついに68年介入を停止した。その結果,金の価格は市場価格と公定価格の2本立てとなり,金の二重価格制が成立した。その後,アメリカは71年にドルの金兌換を停止し,同年末に公定価格を38ドルへ,73年には42ドルへと引き上げたが,金兌換停止後の公定価格に実質的意味はなく,金の価格は市場価格一本になった。金価格は急激な上昇を開始し,たちまち1オンス100ドルを超えてしまった。76年キングストン会議において,ドルと金の結びつきの廃止(金の公定価格の廃止)を意味する〈金の廃貨demonetization of gold〉が打ち出された。しかし,世界の金選好はかえって強まり,一時は(1980)1オンス800ドルを超えた。現在,クルーガーランド金貨(〈ナポレオン金貨〉の項参照)や金地金は金融資産として国際的に保有され,金の実質的地位はなお確固として続いている。
執筆者:

《続日本紀》に749年(天平勝宝1)陸奥国より初めて貢金の記事がある。しかし砂金洗取による生産方法は原初的技術で,日本でも記録以前の原始時代から行われてきたと思われ,また中世末期まで支配的な産金法であった。古代には陸奥白河郡,下野,駿河などに少量を産し,平安末期に佐渡の西三川でも砂金を採ったが,陸奥の砂金地帯(現在の宮城県北部から岩手県南部)が16世紀初期までの主産地であった。奈良時代以来この地方の産金は砂金または砂金を溶錬した錬金で陸奥国司から朝廷へ貢納された。平安中期から宮廷をはじめ造器用の増加,とくに日宋貿易の発展により代価物として多量に輸出されるようになり,金の需要は増大した。12世紀平泉に拠(よ)った奥州藤原氏が豪勢を誇ったころは採掘も盛んになり,またこのころ日本船の大陸渡航が興って金輸出も多くなった。室町時代にも金は明や朝鮮へ引きつづき輸出された。

 金銀山は16世紀中ごろから急に開発され,山金の採掘製錬も進み,17世紀初期にかけ金銀の大増産をみた。しかし17世紀中ごろより金銀山は衰退する。甲斐,駿河など中部の金山が比較的早く開け,ほぼ同時期に北陸の金山,次いで奥羽の金山が起こり,九州の金山は一般にやや開発がおくれた。近世最大の産金をみた山ヶ野金山(現鹿児島県霧島市,旧横川町)は17世紀中ごろ盛んであった。金銀山の開発は戦国大名の熱心な政策下に進められ,金銀は軍用・恩賞に重用された。金銀はまた貨幣としてしだいに使用されるようになっていった。豊臣秀吉は諸国の金銀山は公儀のもので諸領主へ預けおくものとし,運上を徴収し金銀を集積したが,徳川家康も秀吉の鉱山政策を承継推進して重要な金銀山を直轄領とし,幕府財政の強力な基礎とした。

 このころまで金は一般に秤量貨幣として流通した。金の量目は鎌倉時代から1両=4匁5分が行われ,金の使用が広まるにつれこの量目法を京目と呼び,地方に4匁,4匁2分などを1両とする田舎目が行われた。16世紀後期に畿内中心に1両=4匁4分に改まったが,両,分,朱の四進法と貫匁法を併用する便宜からであろう。極印を打ち品位を保証した判金は,すでに15世紀に貿易金として現れ,やがて戦国大名中に鋳造するものもあったが,京都,堺,奈良などに判金,極印銀を鋳造し,両替,秤量,吹替などを営む業者が現れた。16世紀末には地方にも同種の業者が出て,彼らを金屋(かねや),銀屋,天秤屋などと呼び,領主から特権を受けたものが銀座・天秤座である。判金は品位を保証した秤量貨幣で,このほか竿金,延金,玉金など形状によって呼ばれた製錬したままの金も取引された。

 16世紀以後の金銀増産は外国貿易にも重要な関係がある。13~16世紀前期の日本の金銀比価は1対5~6,中国では12,13世紀に1対13ほど,14世紀末~16世紀に1対5~6で,日本では増産のため金銀ともに値段が下落し,とくに産銀が多いため金銀比価は1対10ほどとなり,17世紀前期に1対13ほどとなる。金は16世紀前期までとくに銅銭との相場は中国に対して有利で,日本から輸出された。16世紀後期から銀は輸出の大宗となり,金は輸入に転じ,1630年代まで中国はじめ東南アジア各地から輸入された。17世紀初めまでフィリピン,スマトラ,広南(ベトナム)などの金銀比価は中国以上に日本への金輸出を有利とした。しかし1640年(寛永17)ころ東洋諸国の金銀比価は平均化し,銀との交換による金の有利な価値関係は失われた。徳川氏は1601年(慶長6)慶長金銀を鋳造発行し,ここに金銀貨幣制が確立した。諸領域に流通した金銀(〈領国貨幣〉の項参照)は17世紀末までに幕府の金銀貨に統一される。幕府の金貨は計数貨幣であったが,地金の良否により相場は変動した。95年(元禄8)最初の貨幣改鋳があり,金銀の出目による収益を図ったといわれるが,金銀産出の激減がその背景にあった。

 明治政府は佐渡金山などを官行とし,採鉱製錬の技術面でも西洋のそれを導入したが,産金量は19世紀中は近世初期のそれに及ばなかった。明治末年から大正,昭和にかけ採鉱,砕鉱の法も進歩し製錬法も実情に合うように研究された。1940年の産金高は朝鮮・台湾の金山の分を除き本土の分が27tに達した。第2次大戦後は62年に13t程度であまり振るわず休山したものも多いが,80年代に入って活発な採鉱が行われていることは後述のとおりである。
貨幣
執筆者:

自由世界の金生産高は1965-71年の1200t台をピークにしだいに減ってきたが,82年に1000t台を回復し減少傾向が止まった。これは世界第1の産金国(7割前後を占める)南アフリカ共和国が1970年の1000.4tから81年の657.6tまでの減産に終止符を打った結果である。南アの鉱山は深部探鉱の技術進歩で20世紀中は現行水準を維持できるとしており,一方,ブラジル,ガーナ,パプア・ニューギニア,中国など金鉱の豊かな未開発産金国も指摘されるが,近い将来年間100t以上の生産国が出現する可能性は小さく,南アの圧倒的な地位が続くであろう。ソ連(ロシア)は産金奨励によって徐々に生産量を伸ばし,年間産金量は300t前後(南アに次ぐ)と推定される。日本は年間ほぼ平均的に40tの金を生産しているが,この大部分は輸入銅鉱石中に含まれた金分を精錬過程で抽出したもので,日本の鉱山からの産出は1982年で3.8t,その半分は国内銅,鉛,亜鉛鉱山の副産物である。かつて黄金の国といわれた日本も1940年の27t(日本本土のみ)を最高に減少の一途をたどってきた。ただ最近では九州南部で住友金属鉱山が世界的にもまれにみる高品位金鉱床を発見(菱刈鉱山,1985年から本格的に採掘)するなど活発な探鉱が続いている。

 金の需要は電子工業中心の工業用,装飾品用,私的退蔵用に分かれるが,工業用を除き価格弾力性がきわめて高い。たとえば1980年初頭の1トロイオンス850ドルまでの金暴騰時には装飾品,退蔵金の売戻しがかさみ,この部門の需要はマイナスを記録したほどである。供給面では旧ソ連を中心とする共産圏の売却が外貨事情によってかなり変化する傾向にあった(自由世界の新産金供給は比較的安定している)。各国中央銀行,IMF(国際通貨基金)など公的機関に約3.5万t,フランス,西ドイツなど金選好の高い国中心に個人の退蔵が約2万tといわれ,この公的,私的な両ストックが政治・経済情勢に応じてときに売却に回るため,新産金動向だけでは供給は推し測れない。たとえば83年10月の1トロイオンス400ドル割れは,ポルトガル,ブラジルなどが外貨繰りのため保有金を売却したことが弱(よわ)材料となった。これらの需給はロンドン,チューリヒ,香港,ニューヨークの四大市場を主軸に,自由競争原理に基づいて調整されている(〈金市場〉の項参照)。

 日本では1931年の日本銀行金買入法によって国産金は政府による集中管理となり,これが戦後には50年の貴金属管理法に引き継がれた。52年には白金,銀を除外し金管理法になった(1953年全面改正)。この金管理法では国産金の一部を自由に販売することが認められ,その割合も当初の67%から54年73%,55年95%と拡大,68年以降は全量自由販売となった。67年からは貴金属特別会計法によって,政府が不足分を輸入し民間に払い下げる仕組みができた。1トロイオンス35ドル(1g405円)で買い付け,国内統制価格660円で払い下げ,この差額は貴金属特別会計に積み立てられた。73年4月から為替の自由化と歩調を合わせて金の民間輸入が自由化され,自由化直後の4月の輸入量は37tに達し第1次の金ブームを招来した。78年4月には輸出も自由化され,日本は国際金市場の一環に完全に組み込まれ,その値決めも国際市場のドル建て価格を為替で調整する方式が浸透,一般の金保有が大きく進んだ。82年には3月に東京金取引所が発足,4月からは銀行,証券会社による金の窓口販売も開始され,日本は私的退蔵需要の拡大余地が最も豊かな市場と目されるに至った。
執筆者:



金 (きん)
Jīn

女真(じよしん)Jürchin(女直(じよちよく)Jürchi)族の完顔(かんがん)部長の阿骨打(アクダ)が中国東北地方に建てた王朝。1115-1234年。いわゆる征服王朝の一つ。遼(契丹(きつたん)Kitai)を滅ぼし,宋を圧迫して中国北半を領有,西夏,宋,高麗を臣事させたが,のち急速に強力となったモンゴルのために滅ぼされた。国を保つこと120年。

女真族は,中国東北地方に住むツングースTungus族の一派である。契丹の勢力下で狩猟と農耕とを業としていたが,阿什河流域を根拠地とする完顔部を中心に勢力を蓄え,部長阿骨打のとき,それまで圧迫と搾取とをうけていた遼に反発し,1115年(収国1),会寧府(黒竜江省阿城県下の白城。上京(じようけい)会寧府)で独立して国を金と号した。太祖である。この国号は,阿什河で採取できる砂金に由来するという。彼は,遼の勢力下にあった熟女真や,遼によって滅ぼされ遼東地方に強制移住させられていた渤海の遺民や遼の降臣たちの参画をえて遼を打倒し,長城を越えて河北,山西,内モンゴルに進出。太祖の弟太宗の時代,遼帝を捕らえて遼を滅ぼし(1125),いっぽう対遼同盟を結びながら違約したことを責めて宋都開封を攻陥し,宋の上皇徽宗・皇帝欽宗以下,后妃,皇族,政府要員らを捕らえて本拠にひきあげ,さらに宋の新帝高宗を攻めて江南の地に圧迫し,中国本土の北半を領有した。なお,領内の漢人に,女真人固有の髪(こんぱつ)(前頭部を剃って後頭部の髪だけのこす)を強制したことは,後年清が人民に辮髪(べんぱつ)を強制した先例とみられる。

 1142年(皇統2),煕宗のとき,淮水(わいすい)・大散関の線をもって金・宋の国境線と定め,宋帝に臣礼をとらせ,歳貢(のち歳幣と改称)の提出を約束させて和睦した。これが金国領土発展の極限であった。煕宗を殺して立った海陵王は,53年(貞元1),創業地会寧府をすてて燕京(今の北京)に遷都し,徹底的に漢化をすすめ,さらに江南進出を試みたが,成功せずして自滅した。その従弟の世宗によって善後策が講ぜられ,宋との和議が成立した。世宗は発祥の地である東北地方への配慮を怠らず,国粋主義にもとづく政治を行ったが,女真人漢化の大勢は防ぎえなかった。その孫章宗は全面的に中国文化に心酔したことで知られるが,黄河氾濫による被害やモンゴル系遊牧民に対する防備に国力が疲弊し,これに乗じて失地回復をねらう宋の挑戦に苦しめられた。章宗の末期はモンゴルにおけるチンギス・ハーン出現の時期にあたる。そのモンゴル軍の来襲をうけたのは衛紹王のときである。次帝宣宗の努力にもかかわらず,東北地方を失い,燕京にとどまることもできず,1214年(貞祐2),河南の開封にうつり,河南の各地を転々したのち,モンゴルと宋との連合軍のために1234年(天興3)滅ぼされた。

金は女真人を支配民族とし,領土発展とともに,遼の支配下にあった契丹人,熟女真人,渤海人,河北・山西在住の漢人を包含し,さらに南方発展とともに,宋の治下にあった漢人を加えていった。このうち渤海人は最初から金朝支配に協力的で,その上流の女性で宮廷に入ったものが多い。少なくとも海陵王,世宗,衛紹王は渤海人女性を母としている。また,渤海人には中国風の教養をもったものが少なくなく,女真人に親近な存在として金の中央・地方の政治に参与したものが多かった。また契丹人,漢人の中にも金に協力したものもあったが,警戒を怠ることのできない存在だった。

 金は,全女真人をもって猛安(もうあん)mingham,謀克(ぼうこく)mukeを編成した。300戸を1謀克部,10謀克部を1猛安部とし,その長をそれぞれ猛安・謀克と呼び,1謀克部単位に約100名の兵士を徴集して軍隊を編成した。これは建国前の女真諸部族の軍事組織を行政組織にまで拡充したもので,兵農一致,国民皆兵の制度である。金はこの猛安・謀克を数の上でも,また生活力の上でも優位にある漢人社会の中に配置することによって,支配民族の権威を保った。これは後年,清における八旗(はつき)の内地への配置の前蹤として重要視される。

 しかし,猛安・謀克の漢人社会への配置は,女真人戸と漢人戸とのあいだに摩擦を生ずることを免れなかった。さらにその状態を悪くしたのは,世宗以後に行われた女真人戸救済策である。華北移住の女真人が,国家の保護に慣れ,漢人地主階級の生活を模倣して奢侈怠惰となり,給与地を十分耕作せず,これを漢人の小作人にまかせて遊食し,消費経済の破局を招き,その結果,給与地を手放すものもあった。また,給与地が瘠せているとか,耕作技術が拙劣とかで窮乏するものも出た。女真人同士のあいだでも,権力者は土地兼併を行い,そうでないものはその犠牲となって困窮した。女真人戸の窮乏を憂慮した世宗は,真剣に種々対策を講じた。その場合,女真人戸を救済することによって漢人戸の生活を圧迫することのないように配慮しているが,成績をあげようとする官吏は,往々にして漢人戸の利益を無視したので,土地をめぐって漢人戸と女真人戸の反目はしだいに深刻になることを免れなかった。

 この問題は章宗以後にもちこされ,そのうえ,たびたび起こった黄河の水害も加わって事態はますます悪化した。そのうえ,宣宗の汴京(べんけい)(開封)遷都に伴って河南に移った女真人戸の食糧問題を中心に,女真人戸と漢人戸の相克は深刻の度を加え,金国滅亡の条件を倍加した。

金の領土は中国東北部,内モンゴル,華北にまたがったが,経済的に依存できるのは華北だけで,産物の種類も限られていたので,主要産物を宋から輸入しなければならなかった。自給自足が困難であったうえに,宋や西夏,あるいは西北辺のモンゴル系遊牧民とのあいだにもたびたび紛争を生じたので困難の度が増大した。

 税収の基礎は土地に課した租税であるが,女真人戸が華北に移住すると,漢人の耕地は狭くなり,一方,女真人戸に対しては,漢人戸同様の負担をさせることができなかったので,自然,税収は減少した。そのうえ,外征を始めると,たちまち財政難におちいった。財政難を切り抜けるために考え出したのは,物力銭(ぶつりよくせん)(一種の財産税)の徴収である。物力銭を定めるための財産査定は,通検・推排といい,1164年(大定4)以後1204年(泰和4)に至るまで,原則として10年ごとに実施せられたが,公平な税負担を標榜しながら,実際には増収をねらったため,各所で問題がおこった。

 通貨としての銅銭も不足がちであったので,海陵王時代から,早くも交鈔(こうしよう)(紙幣)を発行して銅銭とともに通用させた。章宗以後は,財政窮乏を切り抜けるため,続々と大量の交鈔を濫発し,猛烈なインフレーションをひき起こし,政府の信用を失墜した。このほか,財政難切抜けのため,宋と同じように,入粟補官(にゆうぞくほかん)(一種の売官)や度牒(どちよう)(僧侶免許状)の売出しも行っている。

1142年(皇統2)の講和成立後行われた。国境線をはさんで,両国とも数ヵ所に榷場(かくじよう)(官設貿易場)を設け,初めは官貿易だけを行ったが,のちには商人の貿易をも許した。金は茶,香料,薬品,象牙,犀角(さいかく),絹織物,木綿,木材,米などを輸入し,宋は北珠(真珠),毛皮,人参,甘草や山東,河南でつくられる絹織物,馬などを輸入した。貿易の総計は金のほうが輸入超過となっていたが,その差額は金が宋から歳貢によって補ったようである。

支配民族である女真人は,アルタイ語系のツングース語に属する女真語を使用した。これは清朝をたてた満州人の満州語と親縁関係がある。女真語を写すために,金朝は女真文字をつくって使用した。女真文字には大字と小字とがある。大字は,太祖の命令をうけて完顔希尹が1119年(天輔3)につくったものであるが,これはおそらく,遼代に用いられた契丹文字を転用したものであろうといわれるが,現在のところ確認されていない。小字は煕宗時代,38年(天眷1)につくられ,45年(皇統5)以後,金国内にひろく使用された。これに対して,被支配民族である漢人は,漢語・漢字を使用し,また契丹人はもっぱら契丹語・契丹文字を使用したようである。

国初隆盛をきわめた遼の仏教をうけついだが,華北領有後は,宋の仏教を継承した。それで宗派も,遼末に行われた律よりも,宋に行われた禅のほうが流行した。金の歴代皇帝は仏教を尊崇して保護したが,遼が仏教保護のために国費をついやして財政難を招いた先例に懲り,国民が仏教におぼれることを深く戒めたので,造寺造塔も遼ほどに盛んではなかった。しかし,《大蔵経(だいぞうきよう)》の印行という大事業を成し遂げて,その後の仏教界に大きな貢献をしていたことが近年になって判明した。それは1934年,山西省趙城県の広勝寺で発見せられたが,山西省の一比丘尼の発願により,煕宗時代から世宗時代にかけて,約35年をついやして完成したものであることが知られる。

 なお,金代宗教界の一般的傾向としては,北宋初期からの風潮に乗じ,儒・仏・道三教融合の思想が行われた。この思想を理論づけた人として,《鳴道集説》を著した李屛山(りへいざん)が知られている。また道教界でも,この三教融合の思想がとり入れられた。華北の漢人社会を背景として,王重陽(1113-70)の開いた道教の新宗派全真教がそれである。そしてそれは,王重陽の門人長春真人すなわち丘処機が教主になるにおよんで急速に盛んになり,元代に入って華北道教界をふうびした。

女真人は文化に対する感受性がきわめて高く,この点,後年清朝をたてた満州人と同様である。文学においては,詩・文ともに北宋文学を移入した。初期には,もっぱら,金に来住した宋人が活躍したが,海陵王時代から金で育った文学の士が輩出し,世宗・章宗時代,ことに章宗時代に最盛期を迎えた。党懐英(1134-1211),趙秉文(ちようへいぶん)らが活躍し,宣宗・哀帝時代には元好問が金代文学の最後をかざった。書画においては王庭筠が傑出している。また皇帝の中でも,とくに章宗は宋の徽宗に傾倒してその書をまなび,徽宗とまちがわれるほどの作品をのこしている。
執筆者:


金 (きん)
jīn

(1)中国の楽器分類法八音(はちおん)の一つ。金属を材料として作られた楽器をさす。唐代の楽器のうち鐘,桟鐘(さんしよう),鎛(はく),錞于(じゆんう),鐃(によう),鐲(たく),鐸(たく),方響,銅鈸(どうばつ),銅鼓がこれに属する。

(2)朝鮮の雅楽器。銅鑼の一種。中国の鑼(ら)の伝来したもの。大金と小金とがあり,ひもでつり下げて槌(つち)で打ち鳴らす。大金は直径約46cm,厚さ約6cm。小金はかつて軍楽にも用いられたが,現在は農楽で重要なリズム楽器として用いられる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

化学辞典 第2版 「金」の解説


キン
gold

Au.原子番号79の元素.周期表11族遷移元素.原子量196.96655(2).質量数197(100%)の安定同位体と,169~205に及ぶ放射性同位体が知られている.元素記号はラテン名aurum(黄色を意味する)の最初の二文字.宇田川榕菴は天保8年(1837年)に出版した「舎密開宗」で,これを音訳して浩律母(アウリュム)としている.
金は人類にもっとも古くから利用された金属で,B.C.5000年のエジプトの遺跡からも金の器具が発見されている.世界最大の塊金の発見は,1869年にオーストラリアのビクトリアのもので2520オンス(約71 kg)で,これにより2280オンスの純金が得られた.わが国においては,続日本紀に,聖武天皇の天平21年(749年)に陸奥の国より産出したことが記されている.歴史的には,佐渡,鴻之舞,串木野金山などがよく知られているが,2007年現在,日本で稼働中の金鉱山は1981年に金脈が見つかった菱刈鉱山(鹿児島県)のみ.同鉱山の鉱石の金含有率は非常に高く1 t 中に平均40 g(40 ppm)もあり,世界の平均値の約10倍で年間7~8 t の金を産出している.2005年には,加えて銅,亜鉛,鉛鉱石精錬の副産物として得られる新産金が約150 t,廃パソコン,携帯電話,めっき廃液などのリサイクルによる再生金が30 t あった.金は大部分自然金として存在し,母岩の石英の風化とともに砂金として産出する.自然金は不純物として銀を含んでいる.また,銅鉱,鉛鉱,黄鉄鉱のなかにも含まれている.地殻中の存在度0.003 ppm.世界の推定全埋蔵量90000 t の40% が南アフリカ,ついでオーストラリア7%,中国,ペルーが各5% 弱.鉱石を水銀でアマルガム化して抽出する混コウ(汞)法,シアン化ナトリウムで処理してシアノ錯イオンとして抽出し(青化法),亜鉛粉末を加えて金を析出させる方法(Merrill Crowe法)に加えて,1970年代から青化法のシアノ錯イオンを活性炭に吸着・分離する方法(carbon-in-pulp法)や,さらに溶媒抽出法が有力となっている.精製は電解法による.黄金色の美しい光沢をもつ金属.結晶は面心立方格子.密度19.32 g cm-3(20 ℃).融点1064.43 ℃,沸点2810 ℃.定圧モル熱容量25.38 J K-1 mol-1(25 ℃).線膨張率0.1424×10-4 K-1(0~100 ℃).熱伝導率315 W m-1 K-1(27 ℃).融解熱12.7 kJ mol-1(1063 ℃).蒸発熱310.5 kJ mol-1(2660 ℃).電気抵抗率2.35×10-6 Ω cm(20 ℃).標準電極電位(Au3+/Au)1.52 V.第一イオン化エネルギー889.9 kJ mol-1(9.225 eV).熱の良導体で銀の73%,また電気の良導体でもあり,銀,銅に次ぎ,電気抵抗率は銀の1.48倍である.金属中でもっとも展延性に富む.硬さ2.5~3.化学的には非常に安定である.単独の酸には不溶.王水に溶けてHAuCl4をつくる.高温では酸素,硫黄とは反応しないが,臭素,塩素とは直接化合する.通常の酸化数1~3.純金を24カラットとして50% の金を含む場合は12カラットと表す.国内では,2005年度の最大用途は,電子部品材料で50% 弱,パソコン,携帯電話用ICパッケージ,プリント基板,リードフレーム,ボンディングワイヤ,コネクター,自動車用電装品など.ついで25% 弱が資産用金地金,宝飾品用10%,歯科・医療用の合金5% などであった.[CAS 7440-57-5][別用語参照]金化合物

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

百科事典マイペディア 「金」の意味・わかりやすい解説

金【きん】

満州(中国東北)〜華北に女真族が建てた王朝。1115年―1234年存続。始祖は阿骨打(アクダ)。を滅ぼし,を南方に追い,1127年以後の中国は金・宋の対立となる。のち都を燕京(北京)に移し,征服王朝として中国人の上に君臨した。国粋化を図って独特の文字なども制定したが,次第に中国化が進み,固有の風俗を失って衰退に向かう。9代120年にしてモンゴル帝国に滅ぼされた。
→関連項目愛新覚羅オゴタイ・ハーン関漢卿契丹後金高麗女真語辛棄疾靖康の変チャガタイ・ハーン中華人民共和国チンギス・ハーンツングース語系諸族刀伊の入寇トゥルイ満州耶律楚材

金【きん】

元素記号はAu。原子番号79,原子量196.966569。融点1064.18℃,沸点2857℃。貴金属元素の一つ。金の使用はきわめて古く,古代エジプトでは前3000年ころすでに水簸(すいひ)法で採取。日本では《続日本紀》に749年陸奥国より初めて貢金の記事があるが,古墳時代の出土品に金象嵌細工がみられることから,より古く原始時代から利用されていたと考えられている。色は,塊状で黄金色,コロイドまたは粉末で紫,融解すると緑。金属中最も展延性が大きく厚さ0.1μmの箔(はく)にできる。化学的に安定だが,シアン化カリウム水溶液,王水,水銀には可溶。貨幣,装飾用,歯科用,電子部品などに使用。合金の純度は18金といった言い方をするが,これは純金を24金とした割合を表示したもので,正式の単位名はカラット。大部分自然金(山金(やまきん))の状態で産出,砂金としても産する。砂金では簡単な比重選鉱,山金ではアマルガム法,シアン化法などにより,その他銀,銅製錬の際の電解槽沈殿物より採取。世界の年生産量は約1901t(1992)。→金鉱

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「金」の解説

金(きん)
Jin

1115~1234

トゥングース系の女真(じょしん)人が,1115年東北アジアに統一政権を立て,やがて南下して中国華北を支配した征服王朝。太祖阿骨打(アグダ)は反遼の民族意識を巧みに用いて統一し,対内的には女真的な勃極烈(ボギレ)制(最高機関),猛安(もうあん)・謀克(ぼうこく)制(軍事・行政制)を定め,対外的にはを滅ぼした。その後,金は華北に侵入して北宋を滅ぼし,秦嶺(しんれい)‐淮水(わいすい)の線で南宋と対峙したが,華北の領有によって二重支配の必要に迫られた。海陵王時代に急進的な中国化が行われ,燕京(えんけい)に遷都し,尚書省のもとに六部(りくぶ)を置いて支配する中央集権制を樹立した。また地方統治には,19の路のもとに州県を置く州県制を採用した。これにより,華北では猛安・謀克制に組織された女真人と,州県制により統治される漢人が雑居するようになった。やがて中国化に伴う女真人の弱体化,戦争による財政危機は衰亡をもたらし,モンゴル帝国,南宋の攻撃で1234年滅亡した。金は国粋化を図って女真文字をつくったが,むしろ中国文化の影響を強く受け,漢文学が流行した。また『大蔵経』(だいぞうきょう)『道蔵』(どうぞう)が刊行され,新道教教団の全真教が興起した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金」の意味・わかりやすい解説


きん
Jin; Chin

女真満州,内モンゴル,華北に建てた王朝(1115~1234)。生女真のワンヤンアクダ(完顔阿骨打)が女真を統一,収奪の激しいと戦い,収国1(1115)年独立して帝位につき,太祖と名のって,金と号した。猛安・謀克制による軍事的・行政的制度を華北に移入し,遼に続く征服王朝としての体制を整えた。初め金は,女真文字を作成し,出身地上京会寧府を都として国粋主義に努めたが,第4代海陵王は,中国的専制国家建設を企て,行政改革や燕京遷都を断行。しかし第6代章宗以降,漢化と貧窮化が進行し,漢人による反乱が続くなかで天興3(1234)年,新興モンゴル帝国の侵入により滅亡。


きん
gold

元素記号 Au ,原子番号 79,原子量 196.96655。周期表 11族,銅族元素の1つ。天然には自然金として産出する。地殻の平均含有量 0.004ppm,海水中の存在量 0.01 μg/l 。資源は主として石英脈中に産する自然金で,母岩の風化沈積により砂金として採取される。単体は美しい黄金色の軟らかい金属で,融点 1063℃,比重 19.3。金属のなかで最も展延性に富み,厚さ 0.1μmの箔を作ることができ,1gを約 3000mの線に伸ばすことができる。化学的には安定であるが,王水に溶け,塩化金酸となる。古くから貨幣,工芸,装飾品の材料として珍重されているほか,陶器類の着色,メッキ,金箔,歯科材料などに用途がある。


きん
gold

金は財 (貨) であるとともに貨幣であり,貨幣は,交換手段,計算単位あるいはニューメレール,価値保蔵手段としての機能をもつ。計算単位あるいはニューメレールの機能を果すためには,貨幣は一方で価値尺度ないし価値標準,他方では繰延べ払いの標準でなければならない。これら諸機能は各種金属,金属以外の財によって果されたが,最終的には金がになうことになった。金が前記のような諸機能を果す理由は,貨幣用財として他の金属には求められない均質性,耐久性,不変質性,鋳造・融解の容易さ,産出量の安定性,運搬の容易さなどの特質をもつためである。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「金」の解説


きん

第Ⅰ族(銅族)に属する黄金色の金属
砂金洗取による採金は原始的な技術で,日本では原始時代から室町時代まで続いた。記録の上では,701年陸奥国での冶金,749年同国からの黄金貢納が『続日本紀』にみえる。産地は陸前・陸中の本吉・気仙・磐井などの諸郡が中心で,10世紀奥州藤原氏が平泉で強勢をふるった時代には産金額も著しく増加した。16世紀になると戦国大名の金銀山開発によって,金の採掘が激増した。金銀は銅銭に比べて高い価値をもつ流通貨幣として通用し,戦国大名は軍用金・恩賞として用いたが,江戸幕府は金山を直轄とし,金座をおいて,大判・小判・一分金などを鋳造・発行した。日宋貿易の発展以来,中世,日本の中国への重要な輸出品となり,幕末の通商条約締結後の金の流出は著名である。日本では1897(明治30)年金本位制が確立した。1931年の金輸出再禁止以来,金本位制は復活していない。しかし,国際通貨としての重要性は変わらない。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「金」の解説


きん

1115〜1234
中国を支配した北方民族の王朝
女真族の完顔阿骨打 (ワンヤンアグダ) (太祖)が会寧を都に建国,2代太宗は1125年遼 (りよう) を,27年北宋を滅ぼした。3代熙宗 (きそう) は南宋に臣礼をとらせ,4代海陵王は燕京(現在の北京)に都した。6代世宗は国制を整え,全盛期を迎えた。8代宣宗のとき,開封に遷都しやがて滅亡。金は猛安 (もうあん) ・謀克 (ぼうこく) 制や女真文字の創始など,民族の独自性を固守しようとしたが,中国文化に同化され,13世紀モンゴルによって滅ぼされた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「金」の解説


きん

中国東北地方からおこった女真族のたてた王朝(1115~1234)。ハルビン南東の按出虎水(あんしゅつこすい)(現,阿什河(アースーフー))の流域を根拠地とした完顔(ワンヤン)部首長の阿骨打(アクダ)(太祖)が,1115年遼から独立して帝位につき,国号を大金と定めた。第2代太宗は遼を滅ぼし,宋の都開封を攻略して,満州・内モンゴル(内蒙古)・華北にまたがる地域を支配した。第4代海陵王は53年北京に遷都し南宋を攻撃しようとしたが,内紛がおこり失敗。1234年モンゴル軍などにより滅亡した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

占い用語集 「金」の解説

五行の一つ。金を象徴とし、陽の金「庚金」と陰の金「辛金」がある。金だけではなく、鉱物や金属、石など生の状態のものや、生成された加工品なども指す。季節では秋、方角では西をあらわす。

出典 占い学校 アカデメイア・カレッジ占い用語集について 情報

世界大百科事典(旧版)内のの言及

【沈金】より

…近代では金箔のかわりに金泥や色粉も用いられる。〈沈金〉は和名で,中国明代の書《髹飾録(きゆうしよくろく)》には〈鎗金 鎗或作 或作創 一名鏤金〉とあり,中国では一般に鎗金(そうきん)または金(そうきん)という。14世紀にはすでにつくられ,存星(ぞんせい)や東南アジアで発達した蒟醬(きんま)の母体となった技法である。…

【阿骨打】より

…中国,金朝の初代皇帝,太祖。在位1115‐23年。…

【女真文字】より

…女真語はツングース・満州諸言語(ツングース諸語)の一つで,これらの言語のうちでも系統的に満州語に最も近い。女真語を使った女真族は,中国の東北地域に1115年から1234年まで存続したを建国した民族である。女真は古く〈女(じよちよく)〉(以下,便宜上〈直〉とする)とも書かれた。…

【大金国志】より

…中国,金朝の歴史を記述した書。全40巻。…

【外貨準備】より

…一国の通貨当局が国際収支の赤字を決済し,または外国為替市場へ介入するために容易に利用できる流動的な資産をいう。IMF(国際通貨基金)の統計では国際流動性international liquidity,また日本の統計では外貨準備高と呼ばれ,概念的には同じものであるが,通貨当局の金保有分の評価のしかたにより計数が異なることがある。外貨準備に含められる金融手段は,通貨当局が使用の必要を感じた際に直接的かつ効果的に管理できる現存の資産に限られ,通貨当局の保有する金および外国為替と,SDR(IMFの特別引出権)保有額ならびにIMFにおける準備ポジションを計上するのが普通である。…

【カラット】より

…語源のうえでは,マメ科の植物デイコの種子のアラビア名quirrat,またはイナゴマメの実のギリシア名kerationに由来するといわれる。 カラットは,金の純度(金相ともいう)の表現にも用いられ,純金を24として表した純度の値に記号Kを添えて示す。したがって純金は24Kであり,純度が750/1000,すなわち18/24の金は18Kであって,これを18金と呼ぶこともある。…

【黄】より

…身色がどのようにして決定されるかは必ずしも明瞭でないが,太陽との関係がとくに重要な意味をもっている。 一般に太陽は色の輝きをもつものとされ太陽に関係のある神々(エジプトのホルス,インドのビシュヌ,ギリシアのアポロン,ペルシアのミトラ,さらにキリスト)の像は多くは金色の身色をもち,金色の衣をまとい,光輪をつけ光を放つ。この金色は神的なものの栄光ないしその力を象徴するが,金色は場合によっては黄色がこれに代わる。…

【貴金属】より

…金属を分類するときの用語の一つで,卑金属に対する語。通常は,金Au,銀Ag,および白金族元素のルテニウムRu,ロジウムRh,パラジウムPd,オスミウムOs,イリジウムIr,白金Ptをいう。…

【銀】より

…周期表元素記号=Ag 原子番号=47原子量=107.8682±3地殻中の存在度=0.07ppm(67位)安定核種存在比 107Ag=51.35%,109Ag=48.65%融点=961.9℃ 沸点=2212℃固体の比重=10.49(20℃)液体の比重=9.4(961℃)水に対する溶解度=2.8×10-5g/l(25℃)電子配置=[Kr]4d105s1 おもな酸化数=I,II周期表第IB族に属する金属元素。金,銅に次いで発見されたとされている。…

【大仏開眼】より

…山間僻地の紫香楽での造像工事は,すでに翌年から火災が頻発し,地震が続発するなど不祥事件が起こり,ついに平城還都が断行された。そして大仏造立の事業は,平城京東郊の金鐘寺の寺地で再開されることになった。当寺はすでに大和国金光明寺に認定されていたが,《華厳経》の研究を行っていた寺であり,また寺地に巨像の鋳造に適した山がもとめられたからである。…

【太陽】より

…そこで太陽に比べてもっと近い惑星や小惑星までの距離を測ったり,その他いろいろなことが試みられてきた。しかし最近のレーダー測距の進歩によって,金星までの距離が,三角測量ではとうてい得られなかった高い精度で測定できるようになり,1天文単位=1億4959万7870kmと国際的に取り決められた。 地球は太陽のまわりを1年の周期で公転しているが,太陽からどのくらい離れたところを公転するかはほぼ太陽の質量だけで決まり,地球の質量にはほとんどよらない。…

【鉛】より

…周期表元素記号=Pb 原子番号=82原子量=207.2地殻中の存在度=12.5ppm(35位)安定核種存在比 204Pb=1.40%,206Pb=25.1%,207Pb=21.7%,208Pb=52.3%融点=327.5℃ 沸点=1744℃比重=11.3437(16℃)水に対する溶解度=3.1×10-4g/l(24℃)電子配置=[Xe]4f145d106s26p2おもな酸化数=II,IV周期表第IVA族に属する金属元素。太古から知られていた元素(古代七金属)の一つで,古代エジプトの遺跡から鉛のメダルなどが発見されており,鉛はおそらく有史以前から,金,銀とともに,金属の形で取り出されていたと思われる。…

※「金」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android