コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

高倉天皇 たかくらてんのう

8件 の用語解説(高倉天皇の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高倉天皇
たかくらてんのう

[生]応保1(1161).9.3. 京都
[没]養和1(1181).1.14. 京都
第 80代の天皇 (在位 1168~80) 。名は憲仁。後白河天皇の第7皇子。母は平時信の娘,尊称皇太后建春門院滋子。仁安1 (66) 年六条天皇皇太子となり,同3年後白河法皇の院政下に即位。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

たかくら‐てんのう〔‐テンワウ〕【高倉天皇】

[1161~1181]第80代の天皇。在位1168~1180。後白河天皇の第7皇子。名は憲仁(のりひと)。後白河法皇の院政下に即位し、平清盛の娘徳子(建礼門院)を皇后としたが、法皇と清盛の不和を憂えて安徳天皇に譲位。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

高倉天皇【たかくらてんのう】

後白河天皇皇子。1168年六条天皇の譲位により即位。中宮徳子(建礼門院)の父平清盛後白河院の対立に悩み,1180年徳子所生の安徳天皇に譲位,形式的な院政を行った。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高倉天皇 たかくらてんのう

1161-1181 平安時代後期,第80代天皇。在位1168-80。
永暦(えいりゃく)2年9月3日生まれ。後白河上皇の皇子。母は平滋子(しげこ)(建春門院)。六条天皇が5歳で譲位し,8歳で即位。平清盛が絶大な権力をふるい,後白河上皇との対立がふかまる。治承(じしょう)4年清盛の娘徳子(建礼門院)との間に生まれた3歳の皇子言仁(ときひと)(安徳天皇)に位をゆずった。治承5年1月14日死去。21歳。墓所は後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は憲仁(のりひと)。
【格言など】薄霧の立ちまふ山のもみぢ葉はさやかならねどそれとみえけり(「新古今和歌集」)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

高倉天皇

没年:養和1.1.14(1181.1.30)
生年:応保1.9.3(1161.9.23)
平安末期の天皇。後白河天皇と建春門院滋子の皇子。諱は憲仁。母滋子の姉は平清盛の妻時子である。3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となる。仁安1(1166)年10月10日,6歳で立太子。同3年2月19日即位。父の院政のもとで成長。皇室との密接な関係を求める清盛の政策で,承安2(1172)年清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎える。清盛の勢力拡大に伴い,後白河法皇との軋轢が深まるなか,治承2(1178)年,生後間もない皇子(のちの安徳天皇)を皇太子とする。天皇の苦悩にもかかわらず清盛は翌年11月クーデタを起こし,法皇を幽閉し院政をとどめ,軍事政権を敷く。翌年2月譲位し,厳島神社へ御幸する。治承4年の福原遷都へも同行するが,生来の病弱に加えて,父後白河法皇と義父清盛との対立の心労が重なり,翌年死去。詩歌管絃に優れ,特に笛は堪能であった。

(櫻井陽子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

たかくらてんのう【高倉天皇】

1161‐81(応保1‐養和1)
第80代に数えられる天皇。在位1168‐80年。名は憲仁(のりひと)。後白河天皇の第7皇子。母は平滋子(建春門院)。1168年(仁安3)六条天皇の譲位を受けて8歳で即位。院政を敷く父法皇と中宮徳子(建礼門院)の父平清盛との対立に悩み,79年(治承3)11月清盛によるクーデタ後まもなく,徳子所生の安徳天皇(3歳)に譲位した。以来,形式上は高倉院政となったが81年1月病没。笛の名手とうたわれた。陵墓は京都市東山区の後清閑寺陵。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

たかくらてんのう【高倉天皇】

1161~1181) 第八〇代天皇(在位1168~1180)。名は憲仁のりひと。後白河天皇第七皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたり、その娘徳子を中宮とした。安徳天皇に譲位。笛の名手。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高倉天皇
たかくらてんのう
(1161―1181)

第80代の天皇(在位1168~80)。名は憲仁(のりひと)。後白河(ごしらかわ)天皇の第七皇子。母は平時信(ときのぶ)の女(むすめ)滋子(しげこ)(建春門院(けんしゅんもんいん))。永暦(えいりゃく)2年9月3日誕生。天皇の時代は、平清盛(きよもり)の権勢盛んなときにあたる。1180年(治承4)、天皇は清盛の女徳子(とくこ)の生んだ皇子言仁(ときひと)親王(安徳(あんとく)天皇)に譲位し、清盛の強請によって上皇として最初の社参を安芸(あき)(広島県)の厳島(いつくしま)神社に行った。これは京都近辺の寺院勢力の反平氏連合をもたらし、それはまた以仁王(もちひとおう)の挙兵と諸国の源氏の蜂起(ほうき)をよび、ここに源平争乱の時代が始まった。そのさなか、治承(じしょう)5年1月14日没した。御陵は京都市東山区の後清閑寺(のちのせいかんじ)陵。[山本博也]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

高倉天皇の関連キーワード建春門院平滋子建春門平時信高松院右衛門佐藤原懿子藤原公光坊門殿若狭局最勝光院

今日のキーワード

大統領補佐官

各種政策の立案その他に関し,側近として大統領に助言する役職だが,実質上はブレーン,顧問として多面的な役割を担う。憲法で定められた唯一の行政責任者である合衆国大統領は,強大な権力を持つにもかかわらず,議...

続きを読む

コトバンク for iPhone

高倉天皇の関連情報