藤原家忠(読み)ふじわらのいえただ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原家忠」の意味・わかりやすい解説

藤原家忠 (ふじわらのいえただ)
生没年:1061-1136(康平4-保延2)

平安後期の廷臣藤原師実次男。母は源頼国女。世に花山院左大臣と呼ばれ,子孫花山院花山院家)を称した。1099年(康和1)兄関白師通が死去したあと,関白になる機会があったが,父師実が師通の子忠実を後継ぎとしたので望みを失った。堀河天皇の信任をうけ,1103年右近衛大将を白河上皇の寵臣藤原宗通と争い,これを退けた。1120年(保安1)関白忠実が女泰子(高陽院)の入内に関して白河上皇意志に背いたため内覧を停止されたとき,家忠がその候補に擬せられたが,上皇の側近藤原顕隆に,稲荷社祭礼の当日,家忠が酒宴乱行を行ったという風説をあげられ,阻まれた。極官位は左大臣従一位。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原家忠」の解説

藤原家忠

没年保延2.5.24(1136.6.25)
生年:康平5(1062)
平安末期の公卿。関白藤原師実と美濃守源頼国の娘の子。三位中将より永保2(1082)年に参議となり,翌年に権中納言。左衛門督,皇后宮大夫,左右近衛大将を歴任して,保安3(1122)年右大臣となる。天承1(1131)年従一位左大臣に至るが,保延2(1136)年病により出家。花山院という邸宅に住んだことから花山院左大臣と号した。兄師通が康和1(1099)年に没したときには摂関家を継ぐ立場にもあったが,父師実から甥の忠実の補佐を命ぜられ,摂関家を助けた。保安1(1120)年忠実が白河上皇の勘気を被り蟄居したとき,その後任の案もあったが実現しなかった。摂家に次ぐ家格の清華家のひとつ花山院家の祖。没した日は14日とする説もある。

(渡辺晴美)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原家忠」の解説

藤原家忠 ふじわらの-いえただ

1062-1136 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
康平5年生まれ。藤原師実(もろざね)の次男。母は源頼国の娘。永保2年(1082)参議。天承元年(1131)左大臣,従一位となる。保安元年(1120)藤原忠実が白河法皇に内覧をとめられたとき,その後任にあげられたが実現しなかった。邸宅花山院をうけつぎ,花山院左大臣と称される。花山院家の祖。保延(ほうえん)2年5月14日死去。75歳。

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