藤原忠通邸跡(読み)ふじわらのただみちていあと

日本歴史地名大系 「藤原忠通邸跡」の解説

藤原忠通邸跡
ふじわらのただみちていあと

古今著聞集」巻一九に「花山院(藤原忠雅)太政大臣の三位の中将の時、法性寺(藤原忠通)殿摂政にて、六条坊門烏丸の御亭より土御門内裏へまいらせ給ふには、近衛東洞院は便路なれば、もっとも此大路をこそ通らせ給ふべきに、いかにもよけさせ給けり」とあり、法性寺殿、すなわち藤原忠通の邸宅が六条坊門烏丸の地にあったことがわかる。しかし、その地域は不詳。「坊目誌」は六条坊門南、烏丸小路東の方一町とする。これは現松屋まつや町辺りである。

藤原忠通(一〇九七―一一六四)は、皇室・摂関家それぞれの内部抗争より起こった保元の乱の一方の当事者で、後白河天皇・源義朝・平清盛らと結び、崇徳上皇や弟の左大臣頼長を排した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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