松屋町(読み)まつやちよう

日本歴史地名大系 「松屋町」の解説

松屋町
まつやちよう

[現在地名]中央区八丁堀はつちようぼり三丁目

もみじ川東岸にあり、南は本八丁堀ほんはつちようぼり一丁目、西は楓川の河岸地、東は岡崎おかざき町、北は神田塗師かんだぬし町代地と伊勢桑名藩松平氏上屋敷。寛永江戸図では島田弾正の屋敷で、延宝年間(一六七三―八一)以降に町屋となった(沿革図書)享保年中江戸絵図に松屋町とみえる。元禄三年(一六九〇)の「江戸惣鹿子名所大全」には北八丁堀松屋町とあり、石塔屋があった。沿革図書の延宝年中の図および元禄年中の図では南を本八丁堀一丁目、北を鳥居播磨守屋敷に挟まれた地域を占めているが、享保七年(一七二二)の図以降町地は楓川沿いの道東側に旧鳥居氏屋敷地を含めて南北に延び、南北の道が付けられた東裏に松屋町代地松屋町続上納地・本八丁堀一丁目代地などが形成された。


松屋町
まつやちよう

中京区二条通高倉西入

東西に通る二条にじよう(旧二条大路)を挟む両側町。東は高倉たかくら(旧高倉小路)から西は東洞院ひがしのとういん(旧東洞院大路)に至り、中央を南北に間之町あいのまち通が通る。

平安京条坊では、二条大路上、平安中期以降は二条大路高倉小路の西。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「二条松田町」、寛永以後万治以前京都全図に「松田町」、寛文後期洛中洛外之絵図に「まつや丁」、寛文末期洛中洛外大図に「松田丁」、元禄末期洛中絵図で「松屋丁」とみえ、以後変化はない。木版図系では、寛永一八年以前平安城町並図に「ならや町」、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「松や丁」とあり、以後変化はないが「京町鑑」では北側南側の二町に分れており、明治元年(一八六八)に一町に復した。


松屋町
まつやちよう

[現在地名]兵庫区鍛冶屋町かじやちよう一―二丁目・本町ほんまち一丁目

たくみ町の北に接する北浜の町。兵庫北関入船納帳に「松や辻子」がみえ、船頭衛門太郎が居住していた。慶長七年(一六〇二)の兵庫屋地子帳(兵庫岡方文書)に町名がみえ、屋敷地四五筆。


松屋町
まつやちよう

[現在地名]丸亀市松屋町

城の北側に位置する。東西の通りに沿う両側町で、「西讃府志」に「魚屋町境ヨリ西ニ折テ通町ニ出ルヲ松屋町トス、長五十間三尺」とある。東は北から魚屋うおや町・米屋こめや町、西および南はとおり町、北は宗古そうこ町。


松屋町
まつやちよう

上京区元誓願寺通千本西入

町の中央を東西に元誓願寺もとせいがんじ通が通り、東側は千本せんぼん通。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に、「松屋丁」とあり、以後、この呼称が多く用いられた。近世の地誌「京雀跡追(延宝六年刊)に「松や丁 此辺もめんいとといやあり。ながたなかぢの上手口人といふあり」、「京羽二重(貞享二年刊)に鍛冶所の一として「元せい願寺松や町 蘭刀 口人忠永」「同 忠広」、能大夫として「元誓願寺千本西へ入 堀池弥三郎」と、町の住人を記している。


松屋町
まつやちよう

[現在地名]大津市御幸町みゆきちよう春日町かすがちよう

葛原くずはら町の南、上東八かみひがしはつ町の東にある東西に長い町屋敷地(寛保二年町絵図)東海道筋に近いため、旅人相手の商いが行われていたという。


松屋町
まつやちよう

下京区五条通烏丸東入

現五条通の北側で東洞院ひがしのとういん通より烏丸からすま通までの片側町

平安京の条坊では、左京六条三坊三保一四町北側と四保一五町南側、平安中期以降は六条坊門東洞院大路の西にあたる。また、この付近には摂政藤原忠通の邸宅があった(拾芥抄)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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