藪塚村(読み)やぶづかむら

日本歴史地名大系 「藪塚村」の解説

藪塚村
やぶづかむら

[現在地名]藪塚本町藪塚

八王子はちおうじ丘陵の南西裾に位置し、北は阿佐美あざみ(現笠懸村)、南は西野にしの村。丘陵沿いに一一の溜池があり、細長く水田が広がる。西部は軽鬆土地で、畑地帯。かつては東方水田地帯が中心であったが、寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発以後、西方へ移ったという。中世には新田庄に属し、鎌倉時代には「藪墓」とも書かれた。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「やふつかの郷 田六町八反廿たい 畠七丁四反廿たい 在家八う」とある。元久二年(一二〇五)地頭職は新田義重嫡子の義兼に安堵され(同年八月日「源実朝下文写」同文書)、のち妻の新田尼に相続され、建保三年(一二一五)三月二二日孫子の岩松時兼に譲られた(「将軍家政所下文写」同文書)。一五世紀半ば頃、藪塚郷は二分され、岩松持国と鳥山式部大夫が各々知行していた(年月日未詳「新田庄知行分目録」同文書)。岩松方は下藪塚とよばれている(年月日未詳「新田庄内岩松方庶子方寺領等注文」同文書)。戦国時代に、谷戸筋の湯之入ゆのいりには要害が築かれ、金山かなやま(現太田市)の北の砦を形成していた(年未詳「北爪右馬助合戦覚書」南部文書)


藪塚村
やぶつかむら

[現在地名]長生村藪塚

水口みよぐち村の西方に位置し、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。西部に沼地がある。小野篁の曾孫伊文が江戸初期当地に移住し、草分になったという(根元家文書)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二五〇石。寛文四年(一六六四)の脇坂安政領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、信濃飯田藩領。同八年の鷹場五郷組合帳では七井戸組に属し、同藩領一〇〇石余。元禄郷帳では高一六六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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