日本歴史地名大系 「新田庄」の解説
新田庄
につたのしよう
- 群馬県:新田郡
- 新田庄
また応永年間(一三九四―一四二八)のものと推定される九条家文書中の年欠一二月一九日玄珎書状には「金剛心院領(中略)上野国新田庄反銭事」とみえ、一五世紀初頭まで
嘉応二年(一一七〇)になると新田庄は大きく発展する。同年の目録をもとに享徳四年(一四五五)に注進した新田庄田畠在家注文(正木文書)に記載されている郷は、
新田庄
につたのしよう
- 兵庫県:豊岡市
- 新田庄
古代の
新田庄の領家職は、鎌倉前期には建保六年(一二一八)に太政大臣となった三条公房がもっていたかと思われ、鎌倉中期にはその子で近江延暦寺で権僧正となった実雲が領家であった。一方地頭は幕府引付衆の甲斐三郎左衛門尉(為重)であったが、領家との間に所務相論が起こり、建治元年(一二七五)「於年貢之
新田庄
にうたのしよう
- 岡山県:備前市
- 新田庄
遺称地は不明であるが、史料上の地名からすると、当初は吉井川左岸の現
建仁三年(一二〇三)の備前国麦惣散用帳(東大史料編纂所蔵)に、国惣分の除分として新田庄地頭分九九石余、ほかに津納の新田庄納九九石余がみえる。宝治二年(一二四八)一一月の預所沙弥某の寄進状(安養寺文書)によって、北条泰時の菩提を弔うため田三町・畠三町六反が庄内の安養寺に寄進された。山陽道に近い安養寺は、鎌倉時代を通じて北条得宗家と結ぶことにより発展を遂げる。近隣の在地領主らによる寄進も、寺運をますます盛んにした。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報