藻原荘(読み)もはらのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「藻原荘」の意味・わかりやすい解説

藻原荘 (もはらのしょう)

平安時代,上総国にあった興福寺領の荘園。現在の千葉県茂原市域に比定される。ここはもと777年(宝亀8)上総国司となった藤原黒麻呂が領した牧で,のち原野が開田されて荘園となり,その子常陸介春継に伝領された。春継は常陸国の大目(だいさかん)坂上氏の女をめとって同荘に住み生涯を終えたが,その子良尚に遺言してこの地に墳墓をつくらせ,後世他人の地となって墓が踏み荒らされることがないように,同荘を興福寺に施入することを命じ,877年(元慶1)に死去した。しかし良尚もまもなく世を去り,その遺命を継いだ長子菅根らは890年(寛平2)に藻原,田代の両荘田を興福寺に施入した。この施入帳(《朝野群載》)によると,藻原荘の規模は東西1020丈(約3km),南北487丈(約1.5km)あったという。なお1160年(永暦1)ごろ,鳥羽安楽寿院領上総国橘樹(たちばな)社の巽(南東)角の地が藻原荘と接しており,相論になっていた事実がある。
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百科事典マイペディア 「藻原荘」の意味・わかりやすい解説

藻原荘【もはらのしょう】

平安時代,上総(かずさ)国に置かれた奈良興福寺領の荘園。荘名は戦国期の藻原之郷,近世の茂原村に継承され,現在の千葉県茂原市街を中心とする一帯に比定される。もとは牧野で,777年上総国司となった藤原黒麻呂が領有していたが,のち開かれて荘園となり,子孫の春継・良尚・菅根と伝領された。877年春継はその死に際し,当荘に暮らしたこともあって荘内に墳墓を造らせ,その墓を末長く守るため興福寺に施入するよう遺言したが,それがなったのは890年菅根の代であった。当時の規模は東西1020丈(約3km)・南北487丈(約1.5km)に及ぶ(《朝野群載》)。1140年頃,上総国橘木(たちばな)荘が京都安楽寿院に寄進されるに際して藻原荘と境相論が起きている(《醍醐寺文書》)。

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