茂原村
もばらむら
[現在地名]宇都宮市茂原町・茂原一―三丁目・末広二丁目
北は羽牛田村・雀宮村、東は用水堀が湾曲して御田長島村に接し、西部に日光街道が貫通する。裳原・毛原とも書く。建武三年(一三三六)一二月日の茂木知貞軍忠状(茂木文書)に「宇都宮毛原合戦仁、抽軍忠」とみえる。年未詳九月一八日付の宇都宮成綱感状写(中里文書)に茂原とみえ、成綱が当地で合戦を行ったときに中里伊予守の城がよく持ちこたえたことを賞している。これより先康暦二年(一三八〇)五月一六日、住民の境界争いに端を発した小山義政と宇都宮基綱の争いにより「裳原」で合戦が行われ、基綱が敗れ小山義政の乱の発端となった(鎌倉大草紙)。
茂原村
もばらむら
[現在地名]岩代町茂原
百目木村の南東に位置し、東は田沢村、南は田村郡北宇津志村(現船引町)。村の北西端を口太川が西流。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名はないが、寛永一三年(一六三六)の加藤家安達郡所納村々高目録(松藩捜古)に御倉入分として村名がみえ(高二七七石余)、文禄三年から寛永一三年までの間に百目木村から分れて高付の村になったと思われる。郷村御用留帳(菅野家文書)や郷高帳(大村家文書)によれば、正徳六年(一七一六)に検地が実施されて本田一四八石余の出高があった。
茂原村
もばらむら
平野木屋の西、宮川の右岸にある。中世後期には北畠氏の支配下にあり、茂原砦には北畠家の被官吉田悪才兵衛尉が居住していたといわれる。「五鈴遺響」は「ソノ裔住シテ歴代連綿セリ」と記している。文禄検地帳(徳川林政史蔵)には「三瀬谷之内茂原村」と記される。宝永四年(一七〇七)新田畑の検地が行われた(「新田畑亥改検地帳」同蔵)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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