改訂新版 世界大百科事典 「境相論」の意味・わかりやすい解説
境相論 (さかいそうろん)
堺相論とも書く。中世の成立期から顕著になり,近世初頭まで繰り返された所領などの境界をめぐる紛争。中世成立期,とくに11,12世紀になると,山野河海の開発,荒廃田畠の再開発などが活発化し,荘,保,別符,名などの多くの中世的所領が,内部に中世的な〈村〉を生み出しながら成立してきた。このような所領の増大・展開は,人口の増大と相まって山野河海の用益を入り組んだものとし,また田畠の所有をめぐる争いを次々に惹起した。そして,それぞれの利害の衝突は,各地でさまざまな境をめぐる紛争を発生させたのである。
荘園体制の形成過程である中世成立期では,荘園と公領(国衙領)の境相論が多い。例えば東大寺領伊賀国黒田荘の成立過程をみると,とくに11世紀前半には国司による荘の〈四至(しいし)(東西南北の境界)〉に立てられた牓示(ぼうじ)の抜捨てと,それに対抗する黒田荘側の武力的抵抗や牓示の打直しが繰り返されている。また対国衙領以外に,荘園相互間や荘園と在地領主の私領との間の境相論も頻発していた。東大寺領美濃国茜部荘(あかなべのしよう)では,1117年(永久5)に西堺をめぐって源光国の私領鶉郷との境相論,41年(永治1)に東堺をめぐって大教院領市橋荘との相論,その翌年には南堺をめぐる尾張国衙領との相論,北堺をめぐっては故二位家領平田荘加納との相論というように,相次ぐ境相論に直面している。鎌倉幕府の成立に伴い,境界紛争の処理についての中世的体制が確立したが,それは次のようなものであった。すなわち東国における境相論は幕府の所管であるが,西国の境相論については〈聖断〉によるというのが原則であった。承久の乱以後,西国についてもしだいに幕府の実質的な介入の度合が強まっていくが,この原則は鎌倉時代を通じて存続した。また国境をめぐる境相論も〈聖断〉によるのが原則とされたのである。
中世前期の境相論では,裁判法上,荘園領主や在地領主が相論主体であるように見える場合が多いが,彼らは本質的には訴訟代理人であり,この時期においても,実際上の相論主体はやはり在地住民たちなのである。彼らの田畠や山野河海における生産諸活動の新たな展開が,境相論を何度も繰り返させたのであった。近江の山間の霊場葛川(かつらがわ)の場合,隣荘伊香立荘との境相論を,鎌倉時代だけでも1218年(建保6),56年(康元1),69年(文永6),83年(弘安6),1317年(文保1)から翌年,29年(元徳1)から翌年にかけての計6度も繰り返している。中世後期になると,境相論の法的原則は,〈根本の道理に任せて,公方の御沙汰たるべし〉とか〈何様にも公方へ訴訟申すべし〉とされているが,実際には荘園領主は訴訟の形式的仲介に立つだけであり,幕府や守護も刑事事件の処理以上のことはしなかった。そこで相論主体としての在地住民たちが前面におどり出てくることになったのである。
ところで境相論は,いったん紛争が惹起すると,一定の手順を踏んで決着をつけようとしても,結局は武力的衝突(実力行使)となるのが常であった。1449年(宝徳1)の近江菅浦と隣荘大浦の間での山論では,近郷の〈乙名〉の仲介で入会協定が取り結ばれるが,協定侵犯がもとで〈合戦〉状態になっている。それは70~80歳の老人さえ弓矢を取るほどの激しいものであった。そのあげく,京都での訴訟による解決の道を取ることになるのである。このように,村落間で境相論の決着をつけるようになると,自力救済的な武力行使と併行して,相論の裁決を神意にゆだねる方式が増加してくる。いわゆる湯起請である。《看聞日記》によると,伏見宮領近江国山前荘と隣荘観音寺との間の山論で,1436年(永享8)3月に湯起請が行われている。戦国期になると,湯起請に代わって〈鉄火〉を取る例が目についてくる。〈鉄火〉は,双方の代表者が灼熱した鉄梃を手に取ったあと,その手のぐあいによって神意を判定するものであった。以上のように中世後期の境相論は,あるいは自力救済的な武力行使によって,あるいは〈鉄火〉裁判や近所の集団の仲裁などによって,在地での紛争解決が目ざされたわけであるが,近世統一権力の登場とその政策によって,そのような解決は否定される。すなわち豊臣政権の天下統一政策は,中世を貫いていた自力救済原則を否定し,境をめぐる,上は戦国大名間の〈国郡境目相論(領土紛争)〉から,下は在地農民と村落の山論,水論などの境界をめぐる紛争に至るまでを,豊臣氏の裁判権のもとで平和的に解決することを基調とするものであった。江戸幕府もこの政策を継承し,近世的な境界紛争の時代が始まったのである。
執筆者:黒田 日出男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報