蛭池村(読み)ひるいけむら

日本歴史地名大系 「蛭池村」の解説

蛭池村
ひるいけむら

[現在地名]大木町蛭池

花宗はなむね川とやま川に挟まれ、北は大角おおずみ村、西は上八院かみはちいん村、東は下妻しもつま江口えぐち(現筑後市)。文禄四年(一五九五)の知行方目録によると「蛭池牟田村」として高一千一〇四石余、「ひるいけむた」として葭方一九石余。「寛文朱印留」には蛭池村とみえる。本高は一千三一一石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によると古高一千八五〇石・役高一千五六〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一千五六六石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田七五町三反余・開田七町四反余・畑田四反余・畑二町七反余・居屋敷一町二反余。


蛭池村
ひるいけむら

[現在地名]福田町蛭池

現福田町域の最北端に位置し、南は南島みなみしま村、北は東新屋ひがしあらや(現磐田市)、西は西之島にしのしま(現同上)に接する。正保郷帳に村名がみえ、幕府領。田方二九八石余・畑方四四石余、寿正じゆしよう寺領二石・薬師領二石。領主の変遷は下太しもふと村に同じ。東海道見付みつけ宿(現磐田市)助郷も同村に同じ。八木家の由緒書によれば享保年間(一七一六―三六)に南北二組に分れた。文政二年(一八一九)には年々不作のところに伝馬役や諸税がかかり、困窮して村方の百姓だけでは耕作ができないので、百姓を二五、六軒差入れてほしい旨中泉なかいずみ代官所(現磐田市)へ願出ている。手余地は高一〇〇石余・一一町余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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