福田町(読み)ふくでちよう

日本歴史地名大系 「福田町」の解説

福田町
ふくでちよう

面積:一六・五九平方キロ

磐田郡の最南端部に位置し、南は遠州灘に臨み、東は浅羽あさば町、北と西は磐田市に接している。太田おおた川が南流して町を東西に画し、今之浦いまのうら川が町の西方を南流、さらにぼうそう川が沿岸部を西から東に通じて太田川河口に注いでいる。町域には遺跡が三ヵ所だけ登録されており、海岸に近い砂堤列上に立地している。平成六年(一九九四)から三年がかりで調査された元島もとじま遺跡は弥生時代中期に始まる集落跡で、古墳時代中期の舟形粘土棺が注目された。以降も断続的に集落は営まれ、一六世紀には舟運による物資の集散地として繁栄していた。


福田町
ふくだまち

[現在地名]米沢市福田町一―二丁目・本町ほんちよう三丁目・吾妻町あづまちよう

神明片しんめいかた町の東方、町人町ひがし町ほかを隔てて位置する。東町直角に折れ東方に延びる板谷いたや街道に沿う両側町で、下級家臣屋敷町。東はまつ川を限る。板谷街道は当町で二筋に分れ、一方は直進して松川の福田橋(万世橋)を渡り山上通やまがみとおり町を経由、他方は南に折れ南進、松川を渡り山上橋本やまかみはしもと町を経たのち前者に合流して板谷峠に通じる。


福田町
ふくだまち

[現在地名]加賀市大聖寺福田町だいしようじふくだまち

なか町の一筋東、ほん町・きよう町の東にある通称青草あおくさ町から北の福田橋に至る道の両側を町域とする。古くは江沼えぬま郡上福田村の一部であったといわれる。寛永年間(一六二四―四四)の大聖寺町家図(伊東家蔵)には北半部に「御大工町」と記す。福田橋は寛文六年(一六六六)に初めて架けられた(「聖藩年譜草稿」土田文書)。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図によると西側北端、福田橋の橋詰に藩の塩蔵が、西側南端に毫摂ごうしよう寺があり、大工・桶屋・塗師屋などの職人が多く住み、「御大工町」の旧名のとおり大工は九軒にのぼる。


福田町
ふくだまち

[現在地名]高松市福田町・瓦町かわらまち古馬場町ふるばばちよう八坂町やさかまち

北は七十間ななじつけん町に接し、東側の塩屋しおや町二丁目に並行して南北に延びる通りと、それに交わる数本の小路に面した町。西側は古馬場町・東瓦町。南は新御長屋(現八坂やさか町)。天保期(一八三〇―四四)にはしだいに町家が並んでいるものの、なおほとんど田畠で、この辺りが松平氏時代前半の城下町南東端である(天保一五年城下図)


福田町
ふくだまち

[現在地名]仙台市福田町四丁目

七北田ななきた川右岸、梅田うめだ川との合流域にある足軽町で、近世田子たご村のうち。「福田安永風土記」によると、正保二年(一六四五)福田足軽の取立てが行われ、同四年より差置かれた。組頭は松元斎兵衛。これは舟入堀(貞山堀)を中心とする舟運の警備のためとされる。町名田子村と隣接する福室ふくむろ村から一字ずつを取ったものといい、町の長さは五町一五間ほど(安永風土記)。当初足軽衆は素年貢を納めたと思われるが、寛文元年(一六六一)田子村のうち四八貫二〇〇文が足軽六八人に与えられている(「伊達綱村領知黒印状」伊達家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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