日本大百科全書(ニッポニカ) 「蜂須賀農場争議」の意味・わかりやすい解説
蜂須賀農場争議
はちすかのうじょうそうぎ
北海道雨竜(うりゅう)郡(現空知総合振興局管内)で起こった代表的な小作争議で、1920年(大正9)から1932年(昭和7)にかけて争われた。蜂須賀農場は侯爵蜂須賀茂韶(もちあき)の所有による典型的な華族農場で、雨竜村(現雨竜町)を中心に一町五村にまたがり、総面積(山林を含む)6000ヘクタール、小作戸数約1000という、わが国有数の小作制大農場であった。1920年の第1回争議は地主側が土地等級調査の結果、一方的に小作料を値上げしたことから始まり、小作人の大半が増額小作料の据置きを要求したが、当初は小作人の敗北に終わった。小作料増額の背景には、当時、政府の要職にあった蜂須賀家の財政難を農場収益の増大で補おうとするねらいがあった。
1926年(昭和1)の第2回争議は日本農民組合雨竜支部の指導により、「小作料全免」「耕作権の確立」「土地を農民へ」の要求を掲げて、組織的に闘われた。農場側は農民組合の攻勢のなかで、翌1927年「土地分譲規定」を発表し、小作人は分譲派と非分譲派に分断された。このあと、全道的な労働者・農民の支援を受けた農民組合(非分譲派)と官憲の力を借りた農場側の対立はすさまじく、1930年(第3回)、1932年(第4回)の争議では、しばしば傷害・乱闘事件が続いた。農民組合は、上京団による蜂須賀家本邸交渉、同盟休校、少年行動隊など多様な戦術をとった。しかし、1932年3月に争議団の主要メンバーが大量に検束され、長期間にわたる争議は終息した。
[神田健策]
『農地制度資料集編纂委員会編『農地制度資料集成 第2巻』(1969・御茶の水書房)』