明治以降に農民が地主に対して団結し、耕作条件の維持・改善、耕作権の確保などを図るために結成した大衆的農民組織。しかし、単なる小作条件や農業経営条件を超え、全耕作農民の階級的団結が試みられる場合には、労働組合の同盟軍として、階級闘争の目的に組織された団体を含める場合もある。
[似田貝香門]
日本における農民組合運動は、明治時代になって、農村の自給的家内工業が解体し、小作料が高騰していくなかで、いわゆる農民騒擾(そうじょう)以降、小作人の対地主への運動となっていった。したがって日本の農民組合は、小作人組合という形で展開してきた。初期のものには1875年(明治8)結成の岐阜の小作人組合や、その後結成された高知の同様の組合がみられるが、全国各地に結成されていくのは1880年代~90年代である。この時代の組合運動は、小作人組合のそれとしての性格が鮮明に出ている。小作地競争防止、小作料減免・引下げなどの小作条件の維持・改善を目ざすものや、耕作権の擁護など、小作農の利益擁護と地位の改善を目的としたものであった。それがゆえに、組合運動やそれに主導される闘争は概して個別的であり、かつ穏和であった。
地主の小作に対する搾取の強化と小作の生産・生活の条件に大きく影響を与えた資本主義の発展という二重の圧迫によって、農民組合の運動条件が大きく変わっていくのは第一次世界大戦後である。1917年(大正6)には130組合にまで小作人組合は増加していった。すでにこの時点で、一部には、地主と協調していく性格をもつ組合から、むしろ抗争的組合へと質的に展開を遂げていく組合も現れ、農民運動高揚期の1918年を迎える。第一次大戦の景気に比して窮乏化の激しかった農民は、ロシア革命や都市の労働運動の影響を受け、急速に農民組合に組織化されていった。
1922年4月、日本で最初の全国的農民組合としての日本農民組合(日農)が創立され、これをきっかけに組織の拡大がみられた。組合数および組合員数は年々増加し、27年(昭和2)には組合数は第一のピークを迎え、組合員数は最大となった。ところが、こうした農民組合運動の高揚期にありながら、日農の内部においては指導層の思想的対立が激化し、1926年3月に右派が脱退(第一次分裂)して全日本農民組合同盟を結成し、翌27年2月には左派による中間派の除名が行われ(第二次分裂)、中間派は全日本農民組合(全日農)を結成、以降、離合集散という状態が続いた。日農と全日農は28年の三・一五事件後に再合同して全国農民組合(全農)となったが、内部の左右抗争はやまなかった。
このようななかで、小作人組合運動一本の運動形態から脱却し、小作人組合を支えて大衆運動を展開するための農民委員会の組織化が提起され(全農左派の全国会議派)、階級闘争という新しい様相をも示したが、地主や官憲の厳しい弾圧を受けた。小作条件の抜本的改善を目標とすれば、地主によって支配されている農村(=むら)の秩序を国家体制の土台としている全体社会と必然的にぶつからざるをえない。したがって、小作人組合は政治闘争にも進出せざるをえなかったわけであり、他方でそれはムラの秩序を解体させていく力ともなっていた。しかし、このような動きは、ファシズムの嵐(あらし)によってまたたくまに打ち負かされてしまった。
[似田貝香門]
第二次大戦後、新しい土地改革を目標に急速に小作農民の組織化が行われ、1946年(昭和21)2月には、離散していた戦前の農民組合各派が大同団結をし、日本農民組合(日農)が結成された。組合員数は47年には120万人以上といわれた。しかし、この結成時にすでに土地改革の方法をめぐる思想的対立があり、戦前と同様、分裂と政党別系列化の道を歩んだ。すなわち、右派社会党系の全国農民組合(全農)、左派社会党系の日農主体性派、共産党・労農系の日農統一派などに分裂した。これらの組合は、農地改革や農村の封建勢力の残存の評価や独占資本主義に対する評価をめぐって大きな主張の差がみられ、したがって組合運動の運動方針も異なっていた。しかし、そのいずれもが、農地改革のいちおうの終了とともに目標を見失い、活動を停止していった。1956年ごろに戦線統一の気運がおこり、58年3月に全日本農民組合連合会への統一がなったが、下部組織を伴わないものであり、大衆運動としての農民組合運動を再展開することはできなかった。
[似田貝香門]
『青木恵一郎著『日本農民運動史』五巻・補巻一(1958~62・日本評論新社)』▽『稲岡進著『日本農民運動史』(青木文庫)』
明治以後に結成された小作条件・農業経営条件の改善を目的とした農民の組織。
小作組合,あるいは小作人組合と呼ばれる小作農民の組織の歴史はかなり古く,明治初期から存在する。しかしその数はまだきわめて少なく,組織の性格も,農事改良,地主・小作人間の協調宥和,小作人の相互扶助,小作地の競争防止等を目的とするものが多かった。小作農民の階級的自覚に裏づけられた農民組合が,量的にも質的にも見違えるような成長をとげるのは,第1次大戦後のことであった。第1次大戦以前には,地主と小作との間を,親子あるいは主従の関係だとする地主的秩序が支配的であり,そのもとで小作農民は高額高率小作料を収取されていた。生産と生活の諸領域において,小作農民が地主の威光から自立することはきわめて困難であった。
しかし,第1次大戦による急激な経済変動が,農民の賃労働者化と農業の商品経済化を急速に促したことは,小作農民に地主制との矛盾を自覚させる大きな契機となった。それまではきわめて劣悪な状態におかれていた自己の生活を,他の労働者の生活と比較するきっかけを得たことや,農業の小商品生産をめざすためには,高額高率小作料がどうしても桎梏(しつこく)であると小作農民は実感してきたのである。また,ロシア革命や米騒動,労働運動,普選制定要求運動等の高揚がデモクラシー思想を農村へ浸透させたことは,農民の思想的覚醒を促すうえで大きな役割をはたした。1922年に,初めての全国的農民組織である日本農民組合(日農,組合長杉山元治郎)が創立され,西日本を中心に急速に勢力を拡大した背景には,第1次大戦後のこのような農民の状況変化があった。小作農民は,日農の指導のもとで農民組合を結成し,小作料減額,耕作権確立などの要求を掲げて,地主側からしばしば譲歩をかちとった。しかし,態様を整えた地主側の反攻や警察の弾圧などにより,1926年ころをピークに農民組合の活動は困難になる。普選実施にともなう農民組合の政治的転換が,政治方針をめぐる無産政党の分裂や,議会進出をはたした争議指導者の体制内化傾向などをもたらしたことも,農民組合の活動に少なからずマイナスの影響を与えた。昭和恐慌のもとで,農民組合は従来未開拓であった東日本で組織を拡大するが,満州事変,日中戦争とつづく戦争の拡大のまえでは,農民組合は後退の道を歩まざるをえなかった。
戦後の新しい状況のなかで1946年に再建された日農は,農地改革断行=地主制解体と供出米強権発動反対を掲げて再び広範な農民を組織し,わずか1年のうちに125万人に組合員を拡大する。農民組合は,各地で農地改革徹底などの成果をあげるが,農地改革が終了すると目標を失い,活動を停止していった。現在その活動は,必ずしも活発でないが,1958年に結成された統一組織全日本農民組合連合会のもとで,農産物輸入自由化反対などの活動がおこなわれている。
→農民運動
執筆者:大門 正克
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