衣川柵(読み)ころもがわのさく

日本の城がわかる事典 「衣川柵」の解説

ころもがわのさく【衣川柵】

岩手県奥州市の衣川地区にあったと推定されている、平安時代後期の安倍氏本拠。安倍氏は奥六(おくろく)郡(のちの陸中、今日の岩手県を中心とした一帯)を支配して勢力をふるった。奥州藤原氏の初代藤原清衡(ふじわらきよひら)の祖父にあたる安倍頼時(安倍忠良の子)はここを本拠とし、前九年の役で安倍貞任(あべのさだとう)が源義家に屈して撤退するまでの18年間安倍氏の政庁が置かれていた。その後、安倍氏に代わって奥六郡を支配した清原家の政庁や居館も、ここに置かれた。柵が設けられたのは清原氏による支配が始まったのちのことである。長者が原遺跡など、安倍氏ゆかりの遺構が点在している。ただし、現在は案内板があるだけで、遺構を見ることはできない。JR東北本線平泉駅からバス約10分で瀬原下車後、タクシー約10分。◇「ころもがわのき」ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「衣川柵」の解説

衣川柵
ころもがわのさく

古代末期,東北地方にあった軍事的拠点の一つ。10世紀以来,陸奥奥六郡の主となった安倍氏の最大拠点。北上川支流の衣川に接し,奥六郡では最も南端の陸奥国胆沢(いさわ)郡に位置した。現在の岩手県平泉町または奥州市衣川区に比定されている。「吾妻鏡」文治5年(1189)条には,安倍氏の一族郎党が結集した往時隆盛をうかがわせる記述がある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「衣川柵」の解説

衣川柵
ころもがわのさく

平安中期,前九年の役で安倍氏の拠った柵
現在の岩手県西磐井郡の衣川北岸に置かれた。

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世界大百科事典(旧版)内の衣川柵の言及

【衣川】より

…安倍氏の反乱は〈衣川関を封ず〉ことに始まり,〈衣川関を出て諸郡官物を徴収〉して拡大(《陸奥話記》)した。衣川柵を破った源義家の〈衣のたてはほころびにけり〉の歌に,安倍貞任が〈年をへし糸の乱れの苦しさに〉と返したという(《古今著聞集》)。藤原清衡は衣川南岸部に平泉を開き,源義経は衣川館で最期を迎えた。…

【衣川[村]】より

…北部を北股川,南部を南股川が東流し,東部で合流して衣川となる。789年(延暦8)衣川柵が付近に設けられ,前九年の役,後三年の役の戦場となり,安倍・藤原両氏にまつわる史跡が残る。農業が主産業で,米作,畜産が行われ,近年はキュウリ,イチゴなどの栽培も盛ん。…

※「衣川柵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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