日本歴史地名大系 「西之丸」の解説 西之丸にしのまる 三重県:上野市上野城下西之丸[現在地名]上野市西大手(にしおおて)町上野城西外堀の西方一帯をいう。「宗国史」伊賀志の上野府「仕家第宅」に「西ノ丸戸凡三十九 地名曰南町 袋町 鷹匠町 当世町 上野」とあり、最後の野は町の誤りであろう。南は向島(むかいじま)町ならびに幸(こう)坂、西も坂で馬苦労(ばくろ)町に下る。この坂を塔世(とうせい)坂といい、塔世坂までの東西の通りを塔世町(塔西・当世とも)といった。塔西の名称は旧平楽(へいらく)寺の西ということから生れたという。塔世坂の北が一段高い台地になり、俗称鉄砲場(てつぽうば)とよばれ、中・上級の武家屋敷が多かった。鉄砲場は上之(かみの)町(伊賀考)とも称せられた。 西之丸にしのまる 三重県:亀山市亀山城下西之丸[現在地名]亀山市西丸(にしまる)町西出丸(にしのでまる)から南三之丸(みなみさんのまる)、西丸(にしのまる)御城米御蔵道を経て青木(あおき)門に至る区域で、亀山城丸之内(まるのうち)の西南部にあたる。「九九五集」所載の城下絵図には、城郭南西部の堀をめぐらしてほぼ独立した区域内に、西出丸と家中屋敷地一六ヵ所が配置され、亀山城の改築につれて西之丸はしだいに充実されている。享保一七年(一七三二)には矢倉・多聞・番所などのほかに家中屋敷として「西丸十一軒、西丸江戸部屋、西丸御用屋敷現今は無し」とみえ、延享元年(一七四四)には板倉氏の家老板倉杢右衛門や医師を含む一〇人が居住(亀山記「鈴鹿郡野史」所収)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報