日本歴史地名大系 「上野市」の解説 上野市うえのし 面積:一九四・五五平方キロ旧伊賀国の北半を占める。北を柘植(つげ)川、東より服部(はつとり)川が西流し、南より長田(ながた)川(木津川)が北流し、西北部の岩倉(いわくら)で合流する。市域はこれら諸川の沖積平野と周辺山地からなり、東中央部の山地より舌状に延びる上野台地は盆地の中央に位置し、四囲を俯瞰する形になる。清浄光(しようじようこう)寺(現藤沢市)蔵の永享年間(一四二九―四一)と推定される過去帳の「尼僧部」に伊賀上野とあり、文明五年(一四七三)の一条兼良の「ふち河の記」にも上野の地名が出る。〔原始〕縄文時代の遺跡は長田川左岸に集中し、南より下郡(しもごおり)、猪田の田中(いだのたなか)、上之庄(かみのしよう)、大内(おおうち)、清水(しようず)などに早期より晩期に至る遺物が出土する。弥生時代は久米(くめ)川右岸の守田(もりた)、柘植川北方の西高倉(にしたかくら)の尾(お)ノ上(うえ)、三田の三田地(みたのみたじ)などに前期より中期の遺跡があり、後期遺跡は南より才良(ざいりよう)・森寺(もりでら)・上之庄・北堀池(きたほりいけ)など長田川流域、荒木(あらき)・上野東部台地・服部など服部川流域に存在する。銅鐸は北部の千歳(せんざい)と南部の下神戸(しもかんべ)辺り、比土(ひど)の三ヵ所より出土し、九〇―一二八センチの比較的大型のものである。古墳は荒木の車塚(くるまづか)が最も古く四世紀後半と推定される前方後円墳で、その麓に一〇基ほどの円墳がある。その北の南宮(なんぐう)山周辺では佐那具の御墓山(さなぐのおはかやま)が一八〇メートルと県下最大の五世紀前半の前方後円墳で、南宮山麓一帯には五〇基余の円墳がある。柘植川北岸山地には四基の前方後円墳と八〇基余の円墳がみとめられ、外山(とやま)の勘定塚(かんじようづか)は石舞台(いしぶたい)(現奈良県明日香村)と同幅の巨石古墳である。南部の比自岐(ひじき)川の盆地には県下第三、五世紀前半の前方後円墳石山(いしやま)古墳のほか七―八基の前方後円墳と一六〇余の円墳、南の比土の盆地周辺にも一〇〇基余の円墳がみとめられる。市街地北部の上野城域に数基、南部の久米山には一〇〇基余の円墳がある。〔古代〕現市域は北部が阿拝郡の印代(いじろ)・服部・三田・新居(にい)各郷、南部が伊賀郡の阿我(あが)・神戸(かんべ)・猪田・大内(おおうち)・長田各郷、中東部が山田(やまだ)郡の木代(きじろ)郷に属した(和名抄)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by