ふくろ‐まち【袋町】
- 〘 名詞 〙 道が行きどまりになって、通り抜けられない町。
- [初出の実例]「蜜夫の難追るるつみの袋町」(出典:雑俳・蝶番(1731))
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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袋町
ふくろまち
[現在地名]金沢市安江町・尾張町二丁目
北陸街道の両側町で本町。南西の下堤町境の木戸から安江町の通りを横断して延び、南東に折れて内総構堀を越える袋町橋で博労町に続く。本通りの長さ二町七間余(加賀藩御定書)。左右に短い脇道をもつ。南は堀片原町と内総構堀に、北は桶町・常福寺上地町に接する。桶町境・堀片原町境に各一ヵ所木戸と番所があった(文化八年金沢町絵図名帳)。当町の末が袋のように行止りになっていたことが町名の由来とされる(金沢古蹟志)。
町人町で寛永一四年(一六三七)には町役四ツ半、のちの市場の発展の様子で役替えの可能性があった(「金沢市中旧記」加越能文庫)。元禄三年(一六九〇)の大火で焼失したが、町内には市場札があった(国事雑抄)。
袋町
ふくろまち
[現在地名]長崎市栄町
酒屋町の南西にある長崎外町の一ヵ町で、船手に属した。町並はほぼ南北に形成され、南は西古川町に通じる。文禄二年(一五九三)畑地を開いて町立てが行われ、外町では最も古く成立した四町の一つで、袋屋・足袋屋の集住に由来する町名と考えられる。慶長二年(一五九七)の町立てともいう(長崎拾芥)。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば平戸町のやす(いよや千松借屋)の奉公人仁兵衛は長崎生れでキリシタンであったが、寛永六年から同九年まで長崎奉行であった竹中采女正のとき「袋町」で転び、一向宗の大光寺を請寺とした。
袋町
ふくろまち
[現在地名]津和野町後田
山根町の北に続く南北道沿いの町人町。南は今市通、北は夷町、西裏は西山根丁、東裏は西町下ノ町に接する。寛永一四年(一六三七)の津和野町屋敷帳(津和野町郷土館蔵)には町名がみえず、寛文九年(一六六九)後田村新畑二畝余が袋町の道として取込まれ、元禄一四年(一七〇一)・同一六年に屋敷地に変えられて成立と考えられる(津和野町史)。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では町の長さ六七間三尺六寸。途中西町の妙寿寺の二軒北から西山際の永明寺へ至る横道が交差し、南の上ノ町、北の下ノ町に分れる。上ノ町は西側は正楽寺と新長柄組に属する足軽屋敷と町屋三(うち鍛冶一)、東側は町屋三(うち鍛冶一)、下ノ町の西側は御草履取および米原組に属する足軽屋敷三と町屋三(大工二・紺屋一)、東側は足軽屋敷一と町屋五(うち鍛冶三)がある。
袋町
ふくろちよう
[現在地名]高岡市大町
横町の西に位置し、南北に延びる。南は梶原淵町に続く。木戸が当町北端と神田屋鍛冶の前にあった(不歩記)。本町で、時割は二時七歩六厘、地子地一千二四歩九厘(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め三千二七〇坪九合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数七四(家数書上帳)。文政四年(一八二一)高岡大火では馬借持一軒を含む全町八七軒と正覚寺を焼失(高岡史料)。明治五年の家数八七(同書)。商家には高岡築城時に能登珠洲郡から来住したという灰屋一族の本家灰屋五兵衛がおり、天保九年分限帳にあげられる。
袋町
ふくろまち
[現在地名]松前郡松前町字福山
近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川東側の沢部に位置し、南は大松前町・枝ヶ崎町、北は蔵町、西は中町・横町、東は海岸段丘。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「袋町」とみえるが、これより早く寛永二一年(一六四四)三月の大火で当町も焼失したことが記録されている(和田本「福山秘府」など)。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると横町から大松前町角まで南北六四間。北側に牢屋がある。享保二一年(一七三六)四月に当町より出火し、数町にわたって一一七戸が罹災した(福山秘府)。
袋町
ふくろまち
[現在地名]中区袋町
西魚屋町の南の横町で、明暦三年(一六五七)の大火後にできた町。明暦の切絵図には北側を町地として袋町、南側は侍士屋敷地とあり、町間数一三七間五尺九寸五分、家数三五とある。この侍士屋敷南の横町は杉の木小路とよばれた。しかし天明年間広島城下絵図は東の研屋町筋南に続く縦町を袋町とする。城下中通組に属した。
天和の切絵図では総家数四〇、うち左官三人、石屋・木屋・道具屋・油屋各二人、医師・針立・米屋・麹屋・油屋・道具屋・革屋・紺屋・大工・桶屋・紙屋・畳屋・屋根葺・馬屋各一人が住み、年寄・組頭も一人ずつであった。
袋町
ふくろまち
[現在地名]伊勢崎市曲輪町
伊勢崎城の北に位置し、紺屋町の西隣の南北の町並で通り抜けできない袋小路の町。酒井氏時代からの町。宝暦一三年(一七六三)の書付(伊勢崎町新古日記)に、北の紺屋町出口から約九八間の仲右衛門宅脇から西へ入り六番屋敷前までの小路四〇間と、堀端から北へ東西の同聚院大門通までの幅二間・長さ六八間の道と、堀端一番屋敷の北側から西へ天台宗延命寺前までの五六間の合計一六四間の小路が記されている。
袋町
ふくろまち
[現在地名]田辺市福路町
下片町の北に東西に延びる両側町。ただし北側の東半分は片側町。東は与力屋敷・足軽屋敷、西は本町。浅野氏による田辺城下経営時からの町で、正保二年(一六四五)魚棚(魚街)に指定された(万代記)。天和四年(一六八四)には塩魚店の開店が当町の者に許可されている(同書)。正保以前は柴垣職人などの居住地であったという(田辺町誌)。
袋町
ふくろちよう
[現在地名]仙台市一番町一丁目・片平二丁目
元荒町の南、通町柳町の西端に突当る職人屋敷で、正保仙台城絵図にその屋敷割がうかがえる。町名は元荒町とそれに並行する狐小路が行詰って袋小路だったことによると伝える。兵具方職人の町で「租税要略」によれば、諸職に対しては上・中・下にわたる役金を課されていたが、兵具方については未詳。享保八年(一七二三)の「仙台萩」に軒数一三、弘化二年(一八四五)の「奥陽名数」には町並長さ一町で軒数は二一とある。職人町でありながら検断・肝入が置かれ、一方支配は町奉行でなく屋敷奉行であった(仙台市史)。元禄城下絵図では当町西部から片平丁にかけて堂形を記す一画がみえる。
袋町
ふくろまち
[現在地名]弘前市袋町
城の西側に位置し、鷹匠町から紺屋町に至る道筋の町並。西は新町、東は五十石町に接する。
正保三年(一六四六)の津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、町屋として町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)には、本紺屋町と記され、三六軒の紺屋、大工三軒、料理店一軒、木挽一軒、関東屋などの商家と万海坊がある。寛文一三年(一六七三)の弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)にも紺屋町と記され、三三軒の町屋と侍屋敷が四軒。延宝五年(一六七七)の弘前惣御絵図(同館蔵)には袋町とあり、この時期から現町名が使用された。
延宝七年の大組頭支配七組分御役人足出帳(同館蔵)によれば、町役は紺屋町支配下の組はすべて中役とあるので、町内も中役であったと推測される。
袋町
ふくろまち
[現在地名]中区錦二丁目
御園町筋から久屋町筋に至る一一ヵ丁の東西道路袋町筋にある(尾張名陽図会)。袋町筋のうち長島町筋・本町筋間の二丁が袋町で、他はそれぞれ南北道筋に支配された(尾張志)。袋町は婦久呂町とも書く。慶長一五年(一六一〇)の清須越しの町。清須本町の小塚田所の袋の内から移転のため、町号の由来となる(尾張城南陌名由緒)。
袋町
ふくろまち
[現在地名]甲府市美咲一丁目
白木町の西に続く東西の通りの町人地で、上府中二六町の一町。北を八幡町が並行する。慶安三年(一六五〇)の府中伝馬人足割帳(県立図書館蔵)に町名がみえる。町名は当町の西が相川の堤へ行止りになる袋の形状に由来するという(甲斐国志)。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(県立図書館蔵)によれば南側八四間・北側九四間。人数は寛文一〇年(一六七〇)の一〇二人(「御用留」同館蔵)、宝永二年(一七〇五)六三人、男二四・女三九(「上下府中人数覚」同館蔵)、宝暦六年(一七五六)九四人、男三八・女五六(「宗門帳人数」同館蔵)。
袋町
ふくろまち
[現在地名]彦根市河原一―二丁目
旗手町の南にある。江戸後期には東町・中町・西町に分れていた。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数一七三のうち借家一一七、男二〇二・女二五八(ほか下人一五)、諸職諸商は二三種五八軒で、米屋一〇・大工七・煙草屋六のほか紺屋・藍染屋・畳屋・医者・道具屋・蝋燭屋・割木屋・木挽など、町代二人は油屋、横目二人は米屋・紺屋が勤めている。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)では町代・横目四軒のほか年貢地六八軒。嘉永三年(一八五〇)の四手町組留書(同書)では家持五三・借家一七五。人数は弘化元年(一八四四)に七二六、嘉永四年には八三〇と増え、安政三年(一八五六)には東町二八六・中町二九三・西町三〇一(「御改覚」同書)。
袋町
ふくろまち
[現在地名]水沢市 袋町
町人町水沢六町の一で、奥州街道の南の出入口に位置。東西に延びる両側町で、同街道は西端から屈曲して北へ向かい横町に接続する。寛永一八年(一六四一)の塩竈村検地帳(県立図書館蔵)に町名がみえ、屋敷数五〇、うち耕地をもつ者は三一。六町のうちで百姓が最も多く、一町以上四人・五反以上一二人・二反以上一五人を数え、ほかは伝馬前・職人など。検断は雅楽助。屋敷割は平均して八・三間×三二・五間で、立町の七・五間×三五・九間に次いで広い(岩手県史)。町の長さと軒数は元禄一〇年(一六九七)二町五八間一尺、四七軒(菅原文書)、安永五年(一七七六)三町一〇間四尺、五三軒(水沢町方等安永風土記)。
袋町
ふくろちよう
[現在地名]堺市車之町東三丁
車東大工町の東にあり、大道の東八筋目に東面する片側町。元禄二年(一六八九)堺大絵図に「北垣外町」とあり、中央に「籠屋」「詮議場」、その南と北に隣接して「北本郷端郷垣外屋敷」があるのみで民家はない。牢屋町の異称があった(申唱之町名「堺市史」所収)。なお同絵図符箋に「籠屋古来之間数ニテ狭ク、幸空地有之、北之方ニテ南北三間東西八間、元禄三年午ノ六月籠屋敷ニ入」とあり、この時期に牢の拡張が知られる。
袋町
ふくろまち
[現在地名]大村市片町 表袋町・裏袋町
片町の北東に位置する。「大村郷村記」によれば片町筋にあり、かつては武家地の草場小路のうちで、寛文八年(一六六八)より徐々に武家屋敷が移転して長店・稲荷町とともに片町袋町が成立、町人地の片町に編入されたという。町並は本通長店曲り目から武家地の草場小路出口までの長さ三四間二尺余、幅は入口が三間三尺余で出口が三間二尺余、文久二年(一八六二)の竈数は栄螺町を合せて三八軒で、「此丁草場小路通り」とあり、町内に長店裏通の栄螺町があった。
袋町
ふくろまち
[現在地名]西区城西三丁目
北は前ノ川、東は堀端筋、南は北鷹匠町および堀端、西は江川に面する東西に細長い町で、西端の江川には二国橋が架かる。町名の由来はその形によるらしいが、明らかでない。すべて武家屋敷からなり、藩士のなかに青木流揉療治の名手青木平太夫があって、文政(一八一八―三〇)の頃その名が高かった。
袋町
ふくろまち
[現在地名]大垣市本町
大垣城の北東に位置する士屋敷地域。本町の札ノ辻より北に位置し、北と西を外堀が限る。北の対岸は栗屋町、西の対岸の北西に袋丸がある。町名は袋小路の町であったことにより、宝暦三年(一七五三)の家数四(新修大垣市史)。明治六年(一八七三)の大垣町続村名帳(県立歴史資料館蔵)に袋町とみえ、同年大垣袋町と称する(濃飛両国通史)。
袋町
ふくろちよう
[現在地名]清水市本町など
清水町八ヵ町の一で本町の東にあり、南は新魚町。東縁は巴川の河岸。本魚町・新魚町とともに魚座三町を形成。慶長年間(一五九六―一六一五)廃城となった袋城跡を埋立てて新町を形成したと伝える(清水湊旧記)。元禄二年(一六八九)の湊役金割付帳(興津公民館蔵)によれば、役金負担軒数一六、うち一軒役二〇・半軒役一二。
袋町
ふくろちよう
[現在地名]富山市中央通り一丁目
中町の東に続き、北陸街道(巡見使道)に沿う両側町。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図に記載され、前田利次による町割当初からの町。安永八年(一七七九)の本家数二九・貸家数四〇で、三丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理では二丁目までとされ、竈数七四、男一三六・女一一五、出張番所・用心井戸各一、出合普請の橋四、南北の通り筋二。当町の南側には森尻屋伝右衛門が居を構え、京都御用飛脚所を勤めていた。
袋町
ふくろちよう
[現在地名]相馬市中村 袋町
西は大手先および河原町(下河原町)に連なる東西一一三間の町で、士卒屋敷が置かれていた。南は宇多川に臨むが、かつては町の南側に猫堀があった。すでにその堀は小さな流れとなっているが、往時架かっていた猫橋にちなむ小さな橋が今もあり、同じ名でよばれる。
袋町
ふくろまち
[現在地名]八代市袋町・本町一丁目
城の南東に位置する。東は外濠、南は前川の堤防に沿い、北は石原丁、南は金屋丁、西は上魚の棚に接する。東端には枡形口番所が置かれていた。
袋町
ふくろまち
[現在地名]長浜市元浜町
知善院町の一本東の南北通りの西側南部・東側北部を占める。南は東北町に続く。西側北部には知善院があり、東側南部は三津屋村の村域が入り込んでいる。朱印地。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数一一(借家四)、男一二・女一六で、町代・横目が置かれた。
袋町
ふくろちよう
東山区大黒町通五条下ル一丁目
袋町筋(大黒町通)に位置。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」骨屋町通の項に「五条下ル 袋町 此町西側に徳養寺と云東門徒有。此町に橋有」と述べる。初め音羽川にはばまれて五条通に通じていなかったので、袋町の名が起こるという(坊目誌)。町名の初見は寛文五年(一六六五)刊「京雀」、地図では承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「ふくろ丁」と出る。
袋町
ふくろまち
[現在地名]鹿角市花輪 横町袋丁
花輪の町並の北部に位置する武家町。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「六軒袋町」とある。新町中央部から東に走る道沿いに形成され、その道は館西麓で北に折れ毛馬内・柴内に通ずる。
袋町
ふくろまち
[現在地名]宇和島市中央一―二丁目
宇和島城の堀を隔てて追手通と竪新町に挟まれ、一丁目・二丁目に分れていた。橋もなく、各町に囲まれていたので、袋町といった。小字に河岸端・亀屋横丁がある。
袋町
ふくろまち
[現在地名]七戸町 七戸・寺裏・影津内
通称袋町。七戸村の町方の東側に位置する。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると下町の東に延び、西は南町へ通じる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に家数一五とあり、享和三年(一八〇三)の仮名付帳では一二。
袋町
ふくろまち
[現在地名]野辺地町 野辺地・
寺ノ沢・
助佐小路・
赤坂など
通称袋町。野辺地村の町方の一つで、本町の東側にあたる。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に野辺地町七町の一として町名がみえる。
袋町
ふくろまち
[現在地名]沼田市 下之町
本町通の西端、下之町の西にあり、南は鍛冶町。鍛冶町辻と西端滝坂口に木戸があり、滝坂木戸から榛名村を経て越後往還が通じていた。北は城南面の滝坂門に通じる。
袋町
ふくろちよう
上京区中町通丸太町一丁上ル
西は西三本木通、中央は中町通が南北に通る。
寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図に「袋や丁」とみえる。承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図以降の諸絵図には「ふくろ町」「袋町」と記され、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「袋屋町」、文政三年(一八二〇)の上京軒役付帳は「袋町」である。
袋町
ふくろまち
[現在地名]長岡市袋町一―三丁目
長町の上半部の東に並行する侍屋敷町で、町名は行止りの袋小路であったことにちなむ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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